蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№698 ただそれだけ

ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす  笹井宏之

 

 

 

6月21日
昨日午後、米子に帰還致しました。JK剣士も元気、あんちゃん(猫)も元気、ういちゃん(猫)も元気。でも、ぶーびすかす(植物)が渇いて死にそうになっていた。

長女ぶーちーはお花の名前がついている。「古くは蓮の花を指した言葉で、美女の形容としても多用された表現である。」Wikiさんより。夏に咲きほこるアオイ科フヨウ属の落葉低木は「木芙蓉」、蓮は「水芙蓉」というらしい。へー。「木芙蓉の」なかまには「酔芙蓉」というのもある。朝は清らかな白い花弁が、夕になるにつれピンク色に染まっていく様を酔いに例えた。酔って赤くなるなんてハハのようではないか~。

ハイビスカスもアオイ目アオイ科の下位分類フヨウ属で同じなかま。なので我が家ではハイビスカスは”ぶーびすかす”と呼ばれる。買っては枯らしでいま何代目かわからないが今回の鉢は立派に越冬して、いくつもつぼみをつけてくれてた。ちゃんと咲いてほしいから水をあげて欲しかったなぁ。でもうちで留守番しているひとたちはぜんぜんそういうタイプじゃないからまあしょうがないし、昨日気付いてたっぷり水をあげたら今朝は復活していたのでよしとしよう。

 

 

足痛い。
朝一番でC治療院で診てもらったのだが、受付でアーユルヴェーダの先輩に「階段から落ちた」と話したら「ぷぷっ!」って感じで笑われた。案の定院長先生には「意識化が足りないからこんなことに」と言われた。足首を触って開口一番「うん、骨折はしてない」。うん、それはさすがに私もわかる。折れてたらこんなんじゃ済まない。なんといっても(人の助けを借りつつも)横浜から大崎経由で自力で帰ってきたんだから、まあいいとこ打撲である。

しかし打ちどころが悪かったらしい。じっとしておけばなんともないが、ふらふらして回ると痛くなることに先程気付いた。ふらふら教徒のクセにふらふらできなくなる日が来るなんて…。

今日は柔道整復と鍼灸の治療をはしごして「楽になった~」と調子に乗り、米子のナンチャッテ高島屋まで足を伸ばして美術部で茶道具を入手する相談をし、真夏向きの服を購入し、お隣の高橋商店で大きなカットスイカを買ってふらふら~と帰ってきた。歩くと痛いもん~とイイワケしながらスイカを食べたりキュウリに味噌マヨネーズをつけて食べ、本(娯楽系短編小説)を読みつつだらだら(痛くなくてもこんな感じ)。

でもJK剣士が帰ってきたとき、買っておくように言われていた鶏ムネ肉を買い忘れていたことにはたと気付いたので、そこからまた買い物に。帰宅して食事を作り、廊下の掃除などをしていたらだーんだん足が痛くなってきて、今は歩くのも難しい感じ。これでまた夜中にトイレに行きたくなって、また滑って階段落ちたら… おっといけない、こんな妄想したらダメ。


病気やケガには象徴的な意味合いがあるとされ、ときに私もクライエントさんの症状をそういう角度から理解してみようとする。昨晩そんなことについて書いてある本をひっぱり出してみると、足のケガは「前へ踏み出すことに罪悪感がある」という意味をもつとある。こういうものは鵜吞みにするものではなく、これを読んでどう思うかが大事なのだが、いや正直いって「確かに~」って感じがある。

 


今年の12月、私はいったいどこにいて何をしているんだろうか?さっぱり想像できない。想像できるのはクライエントさん達とハグして、大口開けて笑い合っていることだけである。あそこでなにを、どこでどんな風に、ということがすべてぼやーッとしていて、それをリアルに想像しようとしても嘘っぽくなる。もともと私はイメージ力が強い方で、夢でも内的なワークでも心的なイメージは映画のようにリアルに見える。色も音も風が頬を撫でる感覚も、いわゆる「ふつう」の生活と寸分違わない。ところがどっこい「こんなふうになればいいな~」というイメージはここのところサッパリできない。

マスターマリコに遠隔でIHヒーリングをしてもらったとき、自分の内的エネルギーがどんな感覚と結びついて強く発露するのかを確認させてもらったが、具体的に想像をしているつもりでもそれはウソっぽくてぜんぜん力が湧かない。ところが、感覚的・感情的なものを想起すると、すぐに強いエネルギーがカラダに漲るのだった。だから夢も憧れも到達したい目標も、体のなかに満ち溢れるなにかをよすがにするのがいちばんよくて、現象的なものを今の制限ある自分で想像してもほとんど意味ないんだろう。

きっと、いや間違いなく、最も素晴らしい夢が叶うとき、それは私の想像を遥かに超えていて、前からでも横からでもなく、通常考えうる視界の範囲外から突然やってくる。だから私の表現で言うと、ボンヤリしていたら右斜め後ろから後頭部(やや右)にガーン!となにかがぶつかって、思わず前に数歩よろよろ~っと足を踏み出してしまうような感じなのだ。思考停止して、衝撃があって、なにが起きたかわかんないが、前いたところとは違う。そういうことなんじゃないかと。

そしてそのとき私は何をしているかというと、ああ、なるほど、と思って大笑いしているかシビれるように喜んでいるはずなので、この最後の部分だけをいつも感じ抜くようにしている。神は細部に宿るので、逆に言うと細部は神にお任せしてその時やれって言われたことを “Om” (=応諾「はい、わかりました。絶対者ブラフマンが仰ることに決して否やは申しません。」)するだけでいいってことじゃないかな。

ここは神聖な場所だから、どちらかを選ばず、結果に執着しないこと。ただ喜んでいればそれでOK。だから足は痛いけど存在的にはなんくるナイサー。あなたとこうして愛しあえて私はしあわせで、しあわせな私の持ち物である脚が痛んでいる。ただそれだけ。私以外には誰も、私を不幸にすることはできないからね。だからだいじょうぶ。