蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№688 対談前夜

このへんでねえキスしよう、目を開けて。わたしはことばでできてないから  尾崎朗子

 

 

 

 

6月11日
ふらふら東京ライフ5日目。本日は聖地田端の秘密の場所でお仕事。

ところでまず、今日ちょっと聞き捨てならないご指摘を受けてオトメ心が激しく傷付いた。このブログの読者様(昭和男子、かつクライエントさん)から「カヨちゃんは自分のこと“森の子リス”とかいっちゃって笑う~」といわれたわけ。ちょっとどう思います?しかもその方は自分のことを「シャイ」だというけどぜーんぜんシャイじゃない。

いや、人は自分のことはわかんないとYogaが教えているとおり。Yogaを淡々と行じ、目を閉じて内的視力を養うべし。さすれば私が森の子リスとして正しく見えてくることでありましょう。

リスにも色々いるらしい。傷付いた心を慰めるために「リス 凶暴」と検索をかけたら、「リスが凶暴化。次々と人を襲い病院に送るキラーリス」とか「スーパーで盗み食いをしていたリス」とか色々出てきた。すごいね、リス。可愛い顔してなかなかやるじゃん。私も見習わなくっちゃね。

 

 

さて!いよいよ明日になったよ。
規夫師匠の新著「人が成長するとはどういうことか」ご出版記念対談。この本の編集者・柏原里美さんとの夢の対談!

ある日ある時駒込でふらふら散歩しながら「師匠、本が出たら聖地田端で対談してくださいよー」とお願いしたらなんとOKが出た。その日からすったもんだで話は進み、いよいよ明日が当日。実に感慨深い。しかし本番がちゃんと段取りよく行われなければ… ということで本日は対談準備だったのだが、いやまた聖地のリーダーのこだわりがほんとスゴイ。私は明日の主役がお座りになる席にぼーっと座り、マイクのチェックのために「なにか喋ってみて!」といわれたらアホなことを口走るというただそれだけである。そもそも聖地田端で対談してくださいよ~とか口走って言っておきながら、聖地田端はリーダーの持ち物なのである。今、この森の子リス的私の周囲においでになる皆様の素晴らしさといったら…。もう胸がいっぱい。私の夢を叶えてくれてありがとう!リーダー、愛してる!

明日は当然、対談後に打ち上げ的なものが予定されている。そして師匠は今月がお誕生日、対談のお相手である柏原さんも同じく。明日お手伝いを買って出てくれたJさんもそう。なので打ち上げは出版お祝いとお誕生日お祝いを兼ねていて、アッと驚くケーキを準備するのが私の当初からの夢だった。妄想は留まるところを知らず、三段のケーキだと勝手に決めていた。でもなかなかそれが見つからない。こだわりの人・リーダーは甘いものは召し上がられないので、ここにはあまり興味が無くてらっしゃる。赤坂のマスターもっちの人脈を駆使しても三段のケーキを見出せなかった。ところがどっこい!際になって福音はもたらされた。

南の聖地(島)で色々洗われておいでになったMおさんからの天の声。ご自宅の近くのケーキ屋さんをご提案頂いたら、そこにずばり三段のバースデーケーキがあった。シンクロニシティ?今まで時を待ったのはこの三段のケーキのため? ありがとうMおさん。ありがとう三段のケーキ。おめでとう、6月生まれのみなさん!


昨日、Integral Japanの高橋恵介さんとの対話のなかで、ウィルバー、インテグラル理論、規夫師匠との出会いでなにが変わった?とのお尋ねがあった。振り返って考えてみると変化を自覚するのに5年はかかった。以前苦戦していたウィルバーの本が「あれ?」という感じですらすら読めるように(ムスカ大尉が「読める、読めるぞ!」と言ったみたいに)なった頃、子供たちに対して要らんことを期待するのをやめた。世間が「いい」とするものをよしとすることをやめたからだ。ただそこにいてくれる(Being)だけで十分だと思えるようになった。その感覚は時とともにだんだん強くなっていく。そうするとこどもたちとの関係も変わったが、他の家人とは話が嚙み合わなくなった。お互い「なんだこいつは」と思っている気がするが仕様がないと思う。私が「変わった」と思う以前の自分となら合意が成立していたので、ごめんよという気持ちもなくはない。でももう後戻りできないのでやっぱり仕様がない。

8年くらい経ったころから、お金に対する考えや姿勢が変わった。余計な念を付与してその影響力を過大視するのをやめたら恐怖心がなくなった。ステファン・ボディアンが「生きることの恐怖を手放すまで、お金の恐怖はついて回る」と書いていたが、この「お金にまつわる」恐怖を克服するのは私の長年の夢だった。ちゃんと叶ったのでとても嬉しい。

10年くらい経った頃には、物事を思うようにしようと思わなくなった。かの水木しげる先生が「人生をこねくり回してはいけない」という至言をお遺しになっておられるが、まったくそのとおり。人の小さなあたま、愚かな心で考えても、絶対者ブラフマンの緻密にして完璧なお仕事を理解するのは至難の業である。なので、じっと堪えて待つことしかできない。そもそも「センセイ」などと呼ばれる者の仕事はこの「じっと堪えて待つことに尽きる」と思う。これは茶の湯の師匠・宗晶師の教えである。ああせい、こうせいと言われたらたまったもんじゃなかったが、私の御師方はどの方も智慧のある優れたお方であったために、アホな私のカメより遅い(カメに失礼か?)歩みをただただ優しく待ってくださった。

 


そして今私はただここにこうしていて、なにも不足がないと思える。ただ、今、ここにこうしておられることがうれしい。「いまこうじゃなければいいのに」と憂うことこそが病気であるというVedaの教えに、完璧ではなくとも概ね従うことができる。

智慧によって救われたと思ってきたが、違う。人によって私は救われた。
ともにこの生を歩んで下さる方々に、心からの感謝を申し上げたい。

対談もお楽しみに! 

 

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