蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№680 まぼろし

掘り下げてゆけばあなたは水脈で私の庭へ繋がっていた   笹井宏之

 

 

 

 

6月3日
今日は私にとって特別な日となった。

米子に滞在している間は、出張には持参出来ない本を読む。荷物になっちゃうから、もって行けないやつ。毎日ほんの少しずつしかめ読ないので何年越しもの読書になる。夜やすむ前に「正法眼蔵2」「コーラン1」「マイスターエックハルト説教集」、そして起床後には「奇跡のコース第二巻 学習者のためのワークブック」。

「今日という日は、レッスンをあなたが実感できる日です」とある。
そのとおりになった。

 


ここ最近ずっと心にかかっていることについて今朝もまた考えて、愛情を与えてくれる存在に対する依存から脱することなくして、わたしの解放は達成されないのではと悩んでいた。

Yogaが目指す境地は「隷属からの解放」であるからこそ、私はどんなものも依存したくない。その“なにか”があるからしあわせだ、と思うことはDukka(苦)そのものである。と、今朝まで思っていた。

ところが、今朝JK剣士を学校まで送って行く車のなかで、本日のページの冒頭部分の音読を頼んだら

「苦痛は間違ったものの見方です。それは自己欺瞞の証です」

ときた。聞いた瞬間「参ったな~!」と思って思わず笑いが出た。

無事JK剣士と防具を学校におろして家に戻り、門脇コーヒーを頂きながら残りの部分を読む。

「あなたに苦痛を与えるのはあなたの思いだけです。」
うん、まったくYogaの教えどおり。

「あなた以外の誰もあなたに影響を与えることはできません」
これも同じく。


ここ数日、以前(約1年前)の自分だったら絶対怒ってただろうな~という場面で、ぜーんぜんハラが立たないという経験をした。アレコレ言って差し上げた方がよかろうなあ、と思いながらその場に臨んだら、目の前の方のお話にすうーっと引き込まれていき「今は」これでよかろうもん、とも思った。


同時に、なるほどコーザル(元因)とはこういうことかと思えた。
元因、微細、粗雑という三つのカラダを明確に言語化できる気がした。(ホントにできるかどうかはわからへん)

なにも問題は無かろう、これで良し。
恐怖も葛藤もないと思えた心持ちのなかで、学校行事により昼過ぎに帰宅したJK剣士と一緒に、ひじきとえんどう豆の煮物とナスの炒め煮を食しながらアレコレ話をしていた。折よくJK剣士があちらから送った荷物が到着したので、それを開いてお土産を手にお土産話を聴きつつ対話していたら、「ほんとーにママは変わってるよな」としみじみ言われた。なにゆえ?

 

 

今日はあんまり長く文章を書けない気がする。
そもそもパソコンにもスマホにも触りたくなくて、朝からずっとクラシック音楽ラヴェルの「ラ・ヴァルス」などなど)を聴いたり、三絃を演奏したりしながら、至福の時を味わっていた。もう今日のブログムリやなーと思ったくらい。


すべてみなあるがままで尊い。その苦しみの、目に見える結果をなんとかしようとするのは愚かである。現象の世界をなんとかしたいのならば、より精妙で力の強い部分に働きかけなければならない。10数年Yogaの学びのなかで耳にタコができるほど聴かされてきた事々。

しかし今日このとき、私は御師様方に言われてきたことが「わかる」気がする。
なぜそう思えるかというと、私自身がしあわせで安全に守られていて、なんの不足もないように感じられるから。頭ではなく、体感としてリアルに。

だれもみな自分のペースでよい。教えは、準備ができたときに触れることができる。Yogaは、準備ができたときに師と出会える。

かつて私が拝受した瑜伽名は、直訳すると「隷属からの解放を好む女神」。なにものにもとらわれず生きたい。あるモノやヒトが好きでたまらん!というのはイヤだと思ってきたが、ある対象を好きでたまらないという経験を通じて今日の気付きが生じ得たと思う。解放はあらゆる路からやってくるから「こういうルートで頼みます」というのは単に自己中心的な思いだということだろう。どの道を通っても同じところに到り得るならば、愛情たっぷりな道の方がいいに決まっている。

今日のハナシはYogaネタパスの人には全然おもしろくなかったかも。ごめんね!でもこれ、すごく大事なハナシだから。うん。

 

 

 

苦痛は幻想である。喜びだけが真実である。苦痛は眠りにすぎず、喜びは覚醒である。苦痛は欺瞞であり、喜びだけが真実である。
“A Course in Miracles” Workbook for students Lesson190-10

  

 

A Course in Miracles

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