蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№674 泥から生まれる

神様になって上から聴いている気持ちになれる 音量1で  伊舎堂仁

 

 

 

5月28日
今日からJK剣士はガッコウに復活である。
監督兼担任と話をさせて頂いたそうだが、なんでも今年もまたインハイは中止になる可能性があるらしい。これで「来年のためにがんばれ」なんて言えない。彼女(そしてほかの多くの選手)の剣道人生にコロナという災難が降りかかり、目指していた道は闇のなかになったということでもういいんじゃないかという気がしてきた。
そしたらJK剣士はどこに行くんだろう?ハハも一緒にどこかに行くのか?まだ確かな道は見えていない。


ハハは今日もいつも通りフラフラしていたが1年半ぶりに突然クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)に関する本が読みたくなり、半日ずっと読書をしていた。昨日Yogaの大先輩と微妙な話をしたせいか気分は下降線、今日も先程まで超低空飛行だったのだがクマラジーヴァの人生に癒された。最後は思わず泣いてしまっていた。日本では彼に関する書籍がほとんどないのが哀しい。なんと私は1年半前までぜーんぜん知らなかった。世界史の時間にいねむりばかりしていたからだろうか。

長女ぶーちーがご縁頂いている学校が、クマーラジーヴァが漢訳した経典とのかかわりが深いとのことで現代語訳を手にとったのがそもそもの出会い。
सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、正しい教えである白い蓮の花の経典は、聖徳太子の時代に日本に渡ってきたという。

他の誰にもなしえなかった膨大な経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に語っているという。「破戒」ということと向き合い、苦しんだのであろうクマーラジーヴァの生涯に心奪われる。

私は20代の後半からしばらく、わけあって自分のことが大嫌いになった。死んでもいいがなかなかやりきれないなかで生きていた。そのとき、ある場所のあるお寺の掲示板で「蓮は泥中から発し…」という言葉に出会い、泥のなかからしか生まれ出ないものがあるのだという教えに深く慰められた。私にとっては自分から生まれた二人の子供は、この美しい蓮の花そのものであり、こんな汚泥のような私から生まれ出てきてくれてありがとうと思った。以降自分のなかで、この「蓮」というものがとても重要な象徴になったのはみなさまご存じのとおり。

 

 

先程までO先生(in静岡)と一緒にポリヴェーガル理論の勉強会をしていた。Onlineってしみじみ便利で感無量である… 私が先日研究総会で勉強したことをシェアさせて頂いたのだが、「生理学的状態の調節運動であるYoga」だけどその調節は結果でしかないので、望む結果に至るためになにをどんな風にお教えするのが大事か、という話をいろんな角度から議論していた。この「いろんな角度」があまりにもいろいろすぎて、それぞれの専門分野のお仲間にこの会話を聞かれたら異端児もしくはバカ扱いされちゃうんじゃないかと思ったりする(でもどれも重要、かつ効果的な観点であることに間違いない)。

「神経受容 Neuro Ceotion」という働きを通じて私たちは周囲が安全かどうかを見極めつつ生きているわけだが、そもそもこの「受容」をきめているものはなーんだ?、ということがめちゃくちゃ大事なわけですよね。となると、ただ体操だけしたってしょうがないし、私の現在の仕事の6-8割は「お話しするだけ=ダルシャナ」で行われていることもこれで神経的には説明がつくなあ。

やっぱり世界をどうとらえるか、ここをどんなところだと思っているかに尽きると思うので、そこをなんとかしていくために、人はいろんな方法を考えてきたのだと思う。


21時10分の電車でご自宅に帰らないといけないO先生を20時45分まで引き留めて、あれこれ話を聴いて頂いた。お蔭さまで元気出てきたからこうしてブログを書いている。
ちゃんと電車乗れたかな、ちゃんとお家に帰れたかな、ご飯食べれたかな?
ありがとね!O先生!