蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№675 おのろけ

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

 

 

 

 

5月29日

いつもフラフラしている私だが、今日は朝から四件もの用が詰まっていて珍しく忙しかった。「生きてるー!」という感じがした。

低空飛行のまま仕事をしてはならないので、セッション等の前には「カッ!」と気合を入れて元気を出していく。この気合はかつて某国営企業で求められていた薄っぺらい気合でなく(これで免疫力を上げて風邪も、たぶん今ならコロナもかからずにいるように求められるのだが、残念ながら免疫力ってそういうもんじゃない)、「あー、いまここに絶対者ブラフマンが、ほら」と思うと眉間や頭のてっぺんやらがスーッとして風が吹き抜けるような感じがし「もうなんにも要らない」という至福感に充たされるので、これで準備完了である。

こういう状態で仕事をすると、そもそものハナシ仕事をしてるのは私じゃないよなあということがひしひしと感じられる。私というのはいわばストローのようなものであって、なにものでもない。

ストローの褒められるべき機能は中身が空っぽである点にある。変なものが詰まっていたら事故が起きるか、大騒ぎになる。

先日、数年ぶりに渋谷の東急ハンズに行ったのだが、そこで売っていたストローのあまりの賢さに衝撃を受けてしまった。このストローで自分のために絶対者ブラフマンを吸い込もうと思ったわけでなく、毎晩浄化法としてのパックをいそいそと行なうときの水分補給用にストローを求めに行ったのだが、そこで出会ったのはシリコン製でなおかつ真ん中から「パカッ!」と開いて洗うことができるという賢すぎるストローなのだった。ストローを洗うためにわざわざ専用のブラシを買う時代はもう過去になったらしい。かつて、JK剣士が稽古中に使用するストロー付き水筒(スクイズボトル)付属の曲がったストローがカビないように、米子市内をストロー専用ブラシを探して流離ったことが夢のようである。Amazonで買えばよかったのに、ねえ。


さて、しつこいが、よいストローは空っぽである。
自分が仕事を通じていったいなにをしているのか最近分からなくなってきて、今日の月1の講座で「最近なんのために自分がおるのかわからへん」と(先生のクセに)言ってみたら、ベテラン生徒のせっちゃんに叱られ「そんなこと言わんでがんばんなさい」と叱咤激励されてしまった。付き合いが長い上、交わしてきた対話が深すぎる故に、どっちがどっちかわからん状態ながらせっちゃんには感謝である。

そもそも教え教えられるというのは双方向なのであって、どっちがどっちに座っているかは「たまたま」だと思う。前回(前生?)ではせっちゃんが私のセンセイだった可能性も大。今は一応こちらがセンセイと言う態になっているから、ど真ん中の(いわゆる専門)ネタに関してはここにいる誰よりも勉強はしており、空っぽのストローを通過させる暑苦しいエネルギー量も私の方が多いのであろうが、それはそれだけのことで、だからといって大した違いではないような気がしてならない。


低空飛行だということを昨日のブログにも書いたからか、テレパシーも通じる大好きな方が気遣ってお電話を下さった。お声を聴けば即座に元気が出るのはいつもしみじみ不思議だ。実のところ昨日はアレコレ思うところがあって無駄に悩み、いつも猫が昼寝をしている中庭に面した日当たりのいい廊下でふて腐れて寝転がりながら、クマーラジーヴァの本を読んでいたのだった。天気が良いので猫は外で寝ていたのだが、私の横を通過するとき「なにやってんだか、まったく」という顔つきで通りすぎていった。

そんなグダグダした1日を過ごして未だ完全浮上はしていないのだが、人の声というものはなんと力を与えてくれるものであろうか。聴く、見る、触れる、ということが人を癒すパワーは絶大なものがある。ハグや、愛し合うことができればもっとだろう。まあでもそんな贅沢なことはなかなか甘受できないので、今日も一介のストローとなって皆さんと一緒にいろんなかたち(ポーズということではなく)のYogaをさせて頂いた。これをとてつもなく贅沢なことと思う。

吹けば飛ぶような小さなわたしがどんな気分であろうとも、わたしのなかのゆるぎないものは常にそこにいてちゃんと私に仕事をさせてくれる。
これが生きているということであり、至福ということかな。

 

そしてこれは生きているかぎりけっして奪われない至福であり、私はこの至福のなかでグダグダしている。これも、絶対者ブラフマンとけっしてわかれることのない私の惚気である。よろしゅうおあがり、ね。