蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№666 テレパシーで

汝に照らされて見つける吾のうすあおい卵の殻のようなもの  小林久美子

 

 

 

5月20日
明日は米子に帰らないけん… とっても楽しかったので、ションボリして帰り支度の手が滞りがちである。昨晩も今晩も、JK剣士はここに泊ってくれるのかと思いきや「さて、やることがあるけん帰るわ」と言ってサッサと自分のおうち(宿泊先)に帰って行ってしまった。サービス精神が足りないんじゃないの。

 

JK剣士不在にかこつけて東京で月の2/3を過ごすという暴挙に出てみたが、別にぜんぜん困らなかった。そして帰ってきたJK剣士に「ママはどれくらい米子におればいいかな」と訊いてみたところ「10日くらいでいいへん」と即答された。それ、あなたがいないときとおなじなんだけど?

それだけ家を空けて何がつらいかというと、あんことういろ(猫)と一緒に過ごせないことかな。猫には間違いなく飢えているJK剣士とハハ。先日原宿で猫カフェを発見して「行きたい~」と言っていたら、ぶーちーから「あそこの猫はね、触ったらダメらしいよ」と聞き意気消沈。猫なのに触ったらダメってどういうこと?猫はさわってなんぼですよ、ねえ。

触ったらダメな猫がいるカフェでなにするんやろうか。眺めながらお茶飲むの? このホテルのそばにキャバクラとかあるらしいけど、そういうお店もおなじような感じなのか。それってすごく切ないよね。「あー、触りたい。触らせてくれないかな」と思いながら誰かを見つめて飲食するなんて、逆に身体に悪い気がする。自分専用の恋人(猫)がいたらいいよね。犬でもうさぎでもいいです、お好みで。だからその点でいえば早く帰って、家に入って「おーい、どこにおる?帰ったでー」と叫びたい。そしたらごはん欲しさに現れて、足にあたたかい被毛を摺り寄せてにゃあにゃあ雄弁に語りかけてくるだろうから。


JK剣士が帰国して以来、なんだかんだでゆっくり本を読む暇がないのだが、昨日は少し余裕があった。4月末に上京してくるときから読んでいた「B面昭和史」をようやく読了。あとがきや巻末の対談などに目を通すと、現在の政治状況が昭和14年頃と酷似していると感じている人は私以外にも多くいることがわかった。そりゃそうだよな… 文庫化以来数年が経っているが、今のこのコロナ対策に関して著者の半藤さんはどのように感じておいでであろうか。

東京の人にはピンとは来ないかもしれないが、地方の感染症に対する反応は気味が悪い様相を呈している。いや、そりゃ都会の禁酒令とか灯火管制とかも異常ですが、地方には独特の怖さがあってこれが「隣組で監視体制を構築した」という話と被って現代の怪奇のようにも聴こえてくる。なんといっても一番怖いのは、創作ではなくて現実だから。

そういえば「もう東京にいた方がいいかも」と思ったのも、山陰における「東京に行っているひと」という扱いがなんとも苦しいような窮屈なような気がしたから、ということもあったんだった。明日からはまたその空気感のなかに戻っていく。今「帰りたくないなあ」と思いながらここにいるが、今度はどのように感じるだろうか。そして今後、私の行動はどのようになっていくだろうか。


同時進行読書中の著者・ノルウェーカップルセラピストは、「結婚制度利用礼賛」の立ち位置の人であることがわかった。なので後半はちょっと割り引いて読んでいる。約4割が破綻する制度における、人格的な要素ばかりを論じて(超越、もしくは感受性の鈍い大人になることで問題解決?)、制度の不備や人の本能的な部分について言及しないのはいくらカップルセラピストだからって片手落ちなんじゃないの?と思ってしまった。っていうか、カップルセラピストだからこそ結婚制度重視ってことなのかな。この方と上野千鶴子さんに対談してもらったら面白そう。読み進めながらモヤモヤしているおバカな私の目がカッ!と開かれて、「そうそう、そういいたかったのよ~」ということをズバリ明らかにしてくれそうである。

 

 

最近、エネルギー(Prana/靈氣)の感覚が鋭くなってきて、これまで一番弱かった第1チャクラ=ムーラダーラに熱の塊があると感じられる。このチャクラは存在の「根」であり、別名「ルート・チャクラ・根っこのチャクラ」と呼ばれる。昨年の春頃はまだここが弱くて、太鼓の大きな音や、地響きのように体に伝わる音楽の振動(良質なホールで足元から伝わってくる低音の響き)などにひどく影響を受けて悪夢を見るようなことがあったのだが、だんだんとここに生き物のような伸びやかな力が宿っていることが感じられるようになってきたのだった。この部分から背筋を通り頭頂にエネルギーが移動していく。瞑想時に感じられることがあったが、この感覚がだんだん強くなっている気がする。

このエネルギーをクンダリニーと呼ぶ。クンダリニー(कुण्डलिनी)とは、人のなかに在る根源的な生命エネルギー。万処に遍在する根源的なエネルギーが人のからだのなかにあるとき、こう呼ばれる。サンスクリットで「螺旋を有するもの」という意味。


今日はとても素敵な1日だった。夢のような1日だった。でも夢ではない確かな体験で、わたしのなかを動くこのエネルギーも目で見えないからといって存在しないわけじゃない。このからだには触れることができるが、感覚は感じ取るしかない。しあわせも感じ取るしかない。今も、思い出すだけで笑顔がとめどなく溢れるような1日をプレゼントしてくださった方に心からの感謝を申し上げたいから、これもエネルギーで伝えてみる。ちゃんと伝わったとき、その方の口元にも自然に、いつものチャーミングな笑みがこぼれてくれるといいなと思う。