蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№603 人間=男性?

たっぷりと春を含んだ日溜りであなたの夢と少し繋がる  笹井宏之

 

 

3月16日

昨日帰ってきたんだけどね、品川から乗った新幹線、ひとがいっぱいだった。

2時間に一本しかない伯備線特急やくもや、日に二便しか飛ばない米子空港発のANA、そして米子でのタクシーは必ず予約するが、新幹線は乗る直前にしか予約しない主義の私。「自由で便利」な都会の交通機関の恩恵を甘受するつもりが、窓際の席がすべて埋まっていた。こんな混み具合、ものすごく久しぶり。そしてお客さんはほとんどが新大阪で降りた。

新大阪から先は車内販売もない旅。水も買えない、アイスも食べられない(食べないけど)。やっぱり都会とやや都会とイナカの感染症感度はけっこう違う。都内もおなじだよって優しいリーダーはなぐさめてくれるけど、そもそも周囲の空気を読んで人が動かないのがイナカ。だから帰ってきた私は危険人物として、本来そうであるようにあくまでもおとなしく生活している。

 

 

負傷JK剣士は昨日から普通の稽古に復帰したとのこと。まだ足の甲に古傷感いっぱいのかさぶたが残ってるけどもうだいじょうぶ。保険金でガッポリ…なんて考えたわけじゃないけど、萬龍軒の夜定食6回分におつりが出るくらい共済がお見舞金くれるんだってよ!やったねJK剣士!怪我した甲斐があったね。ガッツリいかいや!(*米子弁同時通訳=ご馳走をたくさん頂きましょうね)

 

そういえば赤坂の高級クラブで「インテグラル・スナック」をオープンした日、とある秘密の紳士がアフターなるものに?で夕食をご馳走してくださったんだけど、そこの佇まいが「ここは五反田の萬龍軒か?!」という感じだった。翌日こどもたちに「五反田にも萬龍軒があったよ!!」と報告したが価格は全然萬龍軒じゃなかった。将来ぶーちーが出世したらおごってもらおう。

 

 

 

さて、昨日帰りのJRのなかで読みかけの本を読了した。”イギリスの上野千鶴子”と私が命名したキャロライン・クリアド=ペレスの著作である。ちょうどブログで、軍用銃の操作によりいまでも腕にしこりが残っているというネタを書いたばかりだったのだが、そのネタに真正面からヒットした。シンクロ。

 

なんども書くが私は標準の日本人女性の体型を逸脱しており、アメリカ人女性の平均身長も超えている。ただしアスリートやスーパーモデルには足りない。この程度でもジャストサイズの服を見つけるのは難しいし、和服の反物も幅が広い特別仕様のものを用いなければならない。自衛隊で支給されたかつてのストッキングなど、腿の途中で生地が終わっちゃって笑った(靴磨きに転用した)。しかし私だって背が高いというだけで肉体的には女子である。ここ、笑うところじゃないからね!

このことを痛いほど感じるのは強烈な男性社会に紛れ込んだ女性だけだと思うが、どんなに小難しいことができても重量物を男子と同じように持ち上げられなければ「使いものにならない」というレッテルを貼られたりする(レッテルの貼られ方は各業界で違うだろう)。そのことを身に染みて知っているので「男女共同参画」とか「雇用均等」とか無理だろ!と思って来たし、いまも思ってる。

女性ががんばって男性と同じように働いたり、男性がケアを多く求められる女性の役割を果たそうとしても無理があるしなにより非効率でモッタイナイと感じる。だから女子学生の育成に当たったときには、自らの特異な立ち位置を自覚するとともに、そのあるがままの存在として優れた任務が果たせるよう自分の頭を使って必死に考えろと伝えたつもり。男性上司はそんなことを教えてくれないからね。「つかえるWAF(=Woman Air Force 女性隊員)になりなさい」と耳にタコができるほど言ってきたのは、男と張り合うことが女性にとってのいい働き方となるワケじゃないから。

 

この本の中には、人が生きる場面で、人口の半分を占めている女性がどんなに不快な、怖い思いをしているかが綴ってある。私も100名以上の男性の中にたったひとり混じって夏季野外訓練(ようするにキャンプ。私が大きらいなやつ)に参加したことがあるし、飲み会に行っても女子がひとりになることがほとんど。一応みんな紳士的だったけれど、酔って体に触られるとかキスをされるとか体型のことを揶揄されるなんて日常茶飯事で、それにどんなふうに対抗するか、自分をどう守るかに多大なエネルギーを使ってきたと思う。顔はニコニコしていても「触ったら殺す」という無言のオーラを出していたし、人前で酔うこともなかった。

ふつうの女性は無意識に、多くの男性の前で発言を避ける人が多いんだってこの本に書いてあった。その一文を読んで愕然としたのは、前回の加藤ゼミ(人数多め)でズケズケものをいう女は私ぐらいだったような気がするからだ。

 

人間、っていうとき、それは男性のことなんだって。でもそうだよね。女性固有の生態はあまりわかっていないし、あらゆるモノのサイズは男性のカラダに合わせてある。医学の世界でもそう。昨年夏、とあるクリニックの男性医師にあなたはもう老人だと言われた。老化だからもう治らなくて一生クスリを飲み続けるしかないと。でもそのあと怒った私は自分でいろいろ調べて人に助けを求め、セルフケアをし、その時の症状はもうまったくない。クスリも飲まなかった。そのとき医学の領域にも女だけが知る伝承された智慧があって、完全に隠れていると知った。だから諦めたらダメだと思っている。医師は男性だから、悪気はなくてもそもそも思いもよらないんだろう。

 

 

私には素敵な男性のおともだちがたくさんいるけれど、その方々がどんなに素敵な紳士でも、あなたが体験したことも見たこともないことはたぶん理解できない。第二次大戦中、ホロコーストが否定され続けたように。

私は特殊な世界で生きた経験とノウハウを持つ、声も体格も大きくて場合によっては黙っておかない者だからまあいいとして、ずっとうんと背丈の小さい女性がじつは無意識に怖い思いや大変な思いをしているんだと、わかってあげて欲しいな。169㎝の私にとっての64式小銃と、150㎝の彼女にとっての64式小銃はまったく違う意味を持っていたんだと、私自身もこの本を読んでようやくわかって、ちょっと反省している。

そして女性も、男性と同じように生きることを目標にしないで欲しい。たぶん別々の領域でそれぞれを活かしながら尊重し合って生きていくことができるし(Oセンセイが「補寫だね」っていつもいうように)、それはバガヴァッド・ギーターが教える二極の対立を超越することに繋がっていくんだと思うよ。