蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№570 目を閉じて見る世界

まっピンクのカバンを持って走ってる 楽しい方があたしの道だ   加藤千恵

 

 

 

2月12日

今年初めて駒込に上陸(大袈裟)。規夫師匠に長女をご紹介した。
定食屋でご飯を食べたあと、何とも言えないレトロなパン屋の二階で、何とも言えないコーヒーを飲みながらお話をした。いつも私に「ママは“推し”がいていいなあ」とうらやむ長女に、ママの“推し”を「どうだ!」とばかりに見せてやった感じ。
文京区と豊島区の図書館事情や、都内のクラシックコンサート事情、また大学での勉強についてなどたくさんのことをお話下さったので、長女も大いに刺激を受けたことと思う。

規夫師匠ってほんとに凄い。ちゃんとその人の目線まで降りてきて、優しくわかるようにお話下さる。執筆活動のお疲れからか目が四角になっておられて、鋭い目つきのように見えてしまうがそれはこちら側の目の錯覚ですからね。その文章を読めば師匠が愛の人だということがわかる。私は言葉と音による刺激を猛烈に好むので、師匠の文章を読んでるとジーンときちゃうんだよね。言葉のやりとりが排された愛って可能なのだろうか?もしかしたら(人によっては)アリなのかもしれないが、私には絶対に無理っぽい。

 

原作と映像化作品でどちらに震えるほど感動するかというと、やはり文章の打撃力を超えるものは少ないと感じる。「絶対に映像でないと!」と思うのはBBCのシャーロックホームズ。ジェレミー・ブレッドが演じたやつ。あとはなかにし礼の「ながさきぶらぶら節」、吉永小百合と渡哲也のもの。ユアン・マクレガーの「ゴーストライター」も映画の方がすごい。
いいセン行ってる!と思うのは「ジェイン・エア」や「アンナ・カレーニナ」だが、しかし。映像化されたら私の頭のなかの創造力の大部分は消し去られ、「今見てるそれがゼッタイ」のような気にさせられて内的世界が貧相になる気がする。

私はロシアに行ったこともないし毛皮も着たことなどないのだが、雪の舞うロシアの駅で、夜、毛皮にくるまれていない部分が凍り付きそうな寒さを(どんな寒さかもわからないのに)感じながら、自分を追いかけてきた男を見てしまったときのアンナの気持ちを想像する。目を閉じていなければ、見えないものがある。そのアンナの気持ちが、文章であれば読んだ人の数だけあるってことの豊かさ。一人ひとりのアンナがいて、一人ひとりのブロンスキーがいる。字を追っている目も、閉じてしまえればいい。


昔々、智慧も音楽もすべて口で語られ、耳で覚えて伝えられたわけで、そこに視力は要らなかった。視力も文字も便利な道具だけれど、道具を持つことで喪われた何かがあるんだろう。そうすると言葉に依存しちゃう自分の心は、幼いのだろうか?

 

 

昨日の規夫師匠のお話しのなかに「哲学者は情熱的」だというものがあった。長女は学問としての宗教を学んでいるので、眼には見えない宗教というものを教えてくれる先生に情熱を感じるか?というご下問があったのだが、答えはNO。

そう言えば、Yogaの慧心師も大学院まで行ってさんざん宗教について探求した結果、教授に「結局、宗教って実践なんだよね」と言われ、「俺がしてきたことはなんだったんだあ?!」と叫んだという話をして下さるけれど、両方必要ってことですよね。慧心師はここまで探求し苦悩なさったからこそ、スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師様に入門を許され、スピリチュアリティの実践としてのYogaの道を歩まれている。

 

私は哲学者じゃないけれど、その存在を腹の底から信じている絶対者のことを語るとき、とても情熱的だ。世界一愛おしい私の恋人はこの絶対者で、言葉を交わすときはテレパシーで、愛しあうときは微細体。それってもしかしたら妄想かもしれないじゃないとツッコまれそうだけど、そこに情熱があれば、それは愛であって妄想じゃないと思うんだよ。


目を閉じて、心地良い人の声を聴きながら何かをするのは至福だと思う。
自分のレッスンがそのようであって欲しい。インストラクションを発する私の声を、その方の内的なすべてのもので感じ、聴きとるために、目など開けていたくないと思ってもらえるような、そんな声を発することのできる人間になりたい。

 

 

 

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