蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№548 アンナのせい

終止符を打ちましょう そう、ゆっくりとゆめのすべてを消さないように  笹井宏之

 

 

 

1月20日

結膜炎になった。三カ月ほど前にもやっちゃったので再発である。受診中に「あー、もしかしてあれかぁ」と思いついた原因がある。よいこにマネされると困るから書かない。
Ayurvaticな養生法に因を持つことなので、仙台のサナちゃんにだったら話してもいい。きっと「バカだなー」と言って笑ってくれる。でもサナちゃんは私と同じで細かいことに興味がない人だから聞いてくれないかも。

 

 

さて、みなさんは生きているのがめんどうになることはないだろうか?
正直なところ私はしょっちゅうある。そして今日はものすごくテンション下げ目。

先程「アンナ・カレーニナ」の光文社文庫版の新訳を求めに行ったのだが、無かった。鳥取県米子市とはこんなところ…すぐそこに鳥取大学医学部まであるっていうのに。良い医療者になるためにアンナやキティの苦悩に心を寄せることは必要ではないのか?!
じゃあ読んだことのない新潮文庫版でいいや、と思ったら上巻だけが無い。中巻を手に取ってパラパラめくっていたら、いきなり重苦しいシーンになったので救い難い思いで棚に戻した。ちなみにどんなシーンかというと… 
アンナが、恋人との仲を夫に全部話しちゃったことをヴロンスキーに伝えたが、想定外の顔色を読み取ってしまった、というところ。情熱的な恋に翳りが見え始める。

初めてアンナが登場するシーンと、ヴロンスキーがアンナを追いかけてきてしまい恋が確信に変わるシーンを、色んな訳で読んでみたいと思ったのに果たせず。


アンナの人生、酷いな。でも事実は小説よりも奇なり珍なりって言うでしょ?リアル・アンナみたいな人もきっとこの世にいるんだと思うわけ。
そうしたことを徒然ながら考えていたら、苦とは何ぞや、しあわせとは何ぞや、絶対者ブラフマンの仕事とは、人がこの世界に生きるとは…とか考えだし、

生きるのが面倒になってきた。
すぐれた文学作品の持つ力とは、こういうものなんだよ。

 

刻々と繰り返す波として、私は生きている、といったのは誰だったろうか?

YogaではDukka/苦を克服してSukka/楽に到ることを目指す。楽とは苦がないことを示す。誰にも、何にも奪われない確固たる幸福を、自分のなかに打ち立てなければならないと教える。

この幸福は、どこにでも持って行けるしあわせ。
例えば、私が意に添わない行為を強要されて、自分の肉体を傷めつけられたり、精神を蹂躙されるような目に遭ったとしても、この幸福を思えばかろうじてそこに留まり続けることができたり、死にたいくらい苦しくても耐えられる力を与えてくれるしあわせ。対外的な因を持たない絶対的なしあわせ。絶対的じゃなかったらそれはしあわせじゃない。

 

誰かが私に優しくしてくれるからとか、あの人に抱き締められればとか、あの場所に行けばとか、あの味を味わえれば、というしあわせではない。それは感覚器官が感じているしあわせであって、本当の私が感じているものではないから。

ほんとうの私には身体もない、こころもない、だから感覚もない。
そして寂しいと思うこともない。


だからアンナがもし悟った女だったら、あの小説はぜんっぜん面白くなくなるのか、それとも禅が教えるようにこの世に悟ってないものなどいないからこそ、アンナはそのときどきの最も強い情動に身を投じたのか。


死というものは生身の人間にとっては重大な意味を持つから、後に続く人のいろんなものの在りようをすっかり変えてしまう。きっとあの小説のなかで、遺された人々の人生はひっくり返ってしまったと思うし、私のご流儀の祖である利休さまも死をもって道を作ったひと。

だから私たちは絶対者の仕事をどこまでも信頼していなければならず、小さな自分の幸せを追求するという形の苦に身を投じてはならない。

ということは、ありのまま生きろっていうことなんだけれども…。
頭でそうは考えていても、肉体から嫌な感じが立ち上ってくることがある。
でもこの感覚に「嫌な」とレッテルを貼ってきたのは私の勝手なのだから、本当はただ静かにこの感覚を味わい続ければよいはず。なのだが…


今日はあれです。穴があったら入りたいんじゃなくって、山があったら籠りたい。寺があったら籠りたい。山も寺もあるけど寒いの嫌だから、ここで猫を抱きながらぶつくさ言ってる。

自分の生に対する理解ってほんとにまだらで嫌になっちゃうね。やれやれだよ。