蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№542 笑っていて

わがうではまうすぐみずに変はるゆゑそれまでじつと抱かれていよ   笹井宏之

 

 

 

1月14日

昨日リアルレッスンの帰りに渋々食料品等の買い物に出向いたのだが、家に帰ってくるとブタニクがない。JK剣士が「カレーカレー」と言っていたので“ママのではない”一般的日本式カレーを製作しようとわざわざ買ったのに、無い。

ちなみにママカレーとは、元インド首相顧問医師&WHOアーユルヴェーダ上級顧問Dr.Bheema Bhattaによる日本初アーユルヴェーダ指導者養成講座(3年連続)で叩き込まれた本格インドカレー。の、ナンチャッテ・バージョンである。
どのあたりがナンチャッテかというと、ココナッツミルクは使わない、味付けには自家製塩麹を用いる点など。塩麹まで自家製なんて実に家庭的!と思ったでしょう?ブー。買うと高いから、そして精製された塩をそのまま使うのは刺激が強いから。それだけ。

 

それでブタニク。忘れてきちゃってるって、スーパーに。なのでカレーはお預けになった。今朝、このブタニクをお迎えに出かけたところ、天の声が「本の学校へ向かえ」という。本の学校というのは米子市のR431沿いにある今井書店のことです。
絶対者が私に、ハンティングに向かえと仰せつけられた…

 

そして書店でハンティングしていたら「中悟り」がやってきた。
ここにたくさんの言葉があるけれども、真実をそのまま述べたものはひとつとしてない。なぜならばそれは言葉で表現ができないことだから。

多くの指がほんとうのことをゆびさしてくれていて、そのどれかは少し私を助けてくれる。でも私たちは毎日、今の私が初めて歩む道を進んでいるから、多分どんな外的なアドバイスも残念ながらあんまり役には立たなくて、内的な声を聴きとり「間違っているかもしれない」という怖れを持ちながら、勇気をもって足を踏み出すしかない。

 

優れた誰かの言葉も一般論にしか過ぎないのかもしれないけれど、これだけたくさんの人と、たくさんの生と、そしてたくさんの生きられた生に伴う記憶があるとき、自分の本質的なものにうんと迫ってくる言葉があるのも確かだ。
それでもそれをヒントとして、自分を生きるしかないことに変わりはないから。

そうなると、この世で私の教えられることなんてなにもないわけであって、いったいどうしようかなあと思う。
以前ふたりのお兄さん弟子からもらったアドバイスがあり、その二つをミックスさせるとこんな感じになる。「軽やかに楽しく遊んで、そこで学んだことを人に教えるんだけど、智慧じゃなくて愛でもって人を導け」って。

 

私が「わかったぁぁ!これは使える!!」と思えた智慧が、“今のその方”に役に立つかどうかはわからんので、実のところ智慧を獲得させるとか伝えるというようなことは、どうも私のお役じゃないようである。

ただその方と一緒にいて(今はオンラインでのやり取りも多いので、ここでレイキの学びがすごく役に立っている。物理的にでなくても、そばにいる確信。マスターマリコに深謝。)、いつもその方のことを考えていると、自分というもののなかにふと言葉はやってくる。

それを伝えないのは怠慢であり、この言葉を私の心に兆させた“なにか”に対する冒瀆であると思っているので、ときどき叱っちゃうこともある。愛の説教部屋だからね。

こんなこと言っちゃったら、とか、いったいどう思われるかとか、嫌われるんじゃないかとか、偉い人なのに、とか絶対に思わない。絶対に、思わない。
「今、伝えろ」という声が内に聴こえれば従う。それだけ。

 

私は何の仕事をしているかというと、たぶん「ストロー」である。
上(たぶん。もしかすると底。場合によっては奥。)の方から伝わってきたなにかを、この人に、邪魔せず渡しなさいということは言われていると思う。それでその時“Yoga語を使ってそれを行う”というゲームに参加している。

Yoga教師としても芸事の講師や師範としても、はたまた人間そのものとしても40代後半のなんて使いものにならないくらい若輩でしかもアホなんであるからして、最低でもあと十年遊び尽くすしかなかろう。
できれば本当に美しいもの、本当に手のかかったものに触れ、見て、味わい、洗練された人に遊んで欲しい。

「お、それ俺がやってやろうじゃないの」と思っておいでのそこのあなた、ぜひお誘いください。でもあなたのことを大事に思うからこそ、微妙だったら「ビミョー」といってゼッタイ迎合しないからごめんなさい。愛なのよ。

 

 

今朝、師匠から、朝の稽古が始まる前にしつらえを見に来なさいとお声がけ頂いた。「どんなにいいか!」とお声が弾んでおられる。とるものもとりあえず稽古場に向かうと、作法通りに席入りしてご覧との仰せ。

襖をあけ、お席に一礼し入室する。そこから見る稽古場の景色。
いま思い返しても全身が粟立つよう。

大徳寺435世大綱和尚のお筆による横一行書、「笑門」。
花入れは、古備前のように見えるかもしれないが、南蛮である。

他の道具類については、今日ここで書くのは差し控えよう。土曜の稽古で拝見なさる方がお読みになっている可能性がある。

「笑って!」と私にいつも仰られる方のお声が、耳元で聴こえるようだった。
こんな時世だけれども、私たちはそれぞれの新しい生を一歩一歩歩み、過去や未来ではない確かな今この瞬間の美を、流されることなく見る目を養っていきたい。



高校生の頃大好きで狂ったように聞いていた曲があり、ふと思い返して最近毎日聴いている。
”毎朝、混雑したプラットフォームで見かける、ぼくが誰より好きな君は、街並みの光を瞳に集めた女王のようで、決まったように恵比寿で高い空を見上げる。年上だっていい、年下だっていい、名前さえしらない。”
毎月、恵比寿を通過する生活を送るようになって1年が過ぎたが、恵比寿を通るたびにこの歌を思い返してしまう。
ちなみに私は人生で一度も、混雑した駅を利用して仕事に出たことがない。ひとりで運転していては、他の誰より好きなあなたに出会える可能性は無いんだな。ちょっと寂しい。

流されずに生きたい。慣れないで生きたい。
今日逢うあなたは、これまでに逢ったあなたとは違うし、もう二度と逢えないあなただ。その凄さと素晴らしさをいつもわかっていられるよう、外ばかり気にしないで、内側に冴えわたる声に耳を澄ませていたい。



どこにだっている君が他の誰より好きさ
毎朝 忘れてたまなざしを浮かべて ドアが閉まる
流される毎日にベルが鳴る
ぼくは君にしぶきあげる魚になりたい
流されそうな時をはねる魚になりたい