蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№538 用を満たすように

頑丈な佐藤の群れを砕くのは高橋鈴木井上田中   木下龍也

 

 


1月10日
最近毎日、ここで現代短歌をご紹介しているではないですか。大概それをFacebookでシェアするようにしているわけですが、ななななんと!1月3日に、

「ゆるやかな傾斜に水が細長く奪われていくようなはじまり」

をご紹介した際、作者である木下龍也さんご本人から「いいね!」を頂いちゃったのであります!
おもいがけないお年玉をもらった気分。ほら、私は気が弱いしめんどくさがりだからお友達申請とかはできなかったわ。でもすぐに、Amazonさんに頼んで歌集を買いました!! 2冊!今日ご紹介しているのはその本に載っているものですが…

おもしろくないですか?!

この歌を読んだあなた(例えばO先生)のあたまのなかには、あの鈴木師匠とか秘密の場所の佐藤さんとか、さとちゃんが浮かんだでしょ?!絶対浮かんだはず。違うって言わせない。


ちなみに私は人生の大半を「田中さん」で生きてきた。
定規をあてがって書ける超のつくシンプルさ。クラスにも部隊にも、必ず同じ苗字の人がいて、苗字の後に「か」とかつけて区別をしなければならなかった。人口が多過ぎるあまり印鑑が売り切れてしまうこの「田中」に、私は飽き飽きしていたのだ。

天の采配により、書き順が意味不明で、「領収書の宛名はカタカナでいいですよ」と一言添えると猛烈に感謝される今の名字を手に入れた!印鑑は注文でしか手に入らない!
スペシャルな感じがする。
今後人生にどのようなミラクル展開があっても、苗字はこれで行くと決めている。長女も万が一けっこんに突入する一時期があったとしても、苗字は替えないと言っている。壺井家のゴットマザー・大きいおばあちゃん(壺井家に嫁いだ伏見家の人)、ほんとにありがとう!

周囲にはすごく華麗な苗字を持ってる人たちがいて「元・田中」としてはすごく羨ましい。この気持ち、あなたならわかりますよね?高橋さん佐藤さん。それこそ我が子たちは「もともと壺井」でいいなあ。
元来華々しい名前の人は、自分の名前の豪華さに適切な敬意を払っていないよ?!うちのチーム・リーダーなんてすごく書き順の多い派手な名前なのに、「俺の代でこの家終わり」なんてことを平気で言う。ゆるせーん!娘さんがなにがなんでも婿に入りたい男を捕獲してきてくれたらいいのに。リーダー家の名字温存計画発動である。

 

 

なにゆえこんなネタに熱くなっているのであろうか。
木下さんに敬意を評したかっただけなのに。いかんいかん。


昨日(9日)、朝からお茶、夜は筝曲の稽古始だった。
お茶ではお炭手前をさせて頂いた。初炭の稽古。

今、炭はとても貴重なもの。茶道に用いる美しい炭をご覧になったことがおありだろうか? 菊のはなのような断面をしているので「菊炭」とも呼ぶらしい。ご流儀によって名称や用いる種類は違うと思うが、表流ではこんな感じ。

胴炭/丸管/割管/丸毬打(まるぎっちょ)/割毬打(わりぎっちょ)/添炭/枝炭

なにしろお湯がないと茶は点てられないので、ほんらいお茶を頂く前に炉に炭を入れる(初炭)、炭を直す(後炭)という点前が入る。江戸時代に確立したという今のお稽古形式って、お茶事を分割したロールプレイですから。

炭手前は難しくて、ようやくちょっとだけ「どうしたらよく湯が沸くか」をわかりかけているところ。火種、炭、空気、炉という場、これらがすべて絶妙なコンビネーションにならないと、手前をしても(炭を継いでも)火は消えてしまう。自分の炭手前のあと、湯が沸き釜が鳴り、湯気が立ち上るのを見ると嬉しくなるし、ホッとする。

用を満たすように、働きを為せたら嬉しい(それがすべてではないけれど)。
手前(点前)が美しく見えても、道具が豪華でも、湯が沸かないと茶は飲めない。実にシンプルで深いと思う。実際に自分のからだを動かすことでしか得られない叡智がある。

 

昨晩、リーダーからわたしたち(よっちゃん・かよちゃん)に温かい励ましのメッセージが届いた。これもお年玉。
「議論は百遍尽くしても無駄」とのお言葉。
行動してもすぐに体は動かず、アタマとカラダはちぐはぐで初めは誰もが皆、無様である。しかし稽古を尽くすことによって誰も皆、美しさを湛えはじめる。それが実践の持つ価値であり、素晴らしさだと思う。ここに関して、この世は徹底的に平等な世界だと思う。もし差があるとすればそれは信念、心の問題だけだ。

やると心定め、できると信じる。わたしのなかの何かが為してくれることを信じる。そしてその行為を何かおおきなものに捧げる。結果を求めて行為はしない。目に見える現象でジャッジしない。今年もただそれだけ、このあとの人生も、ずっとそれだけ。

 


私はずっとSpiritualなものを求めてきてようやくそれがわかった気がしていた。今なら、自分のなかのゆるぎないいのちに確信をもち、その感覚を言葉で人に伝えられる気がしている。
でも外的な現象のなかにもすべて、このSpiritualなものが宿っていることを認識するのがまだ得意ではない。いわゆる現世(Maya。普通の人にとってのリアル)でこのSpilitualityを見つけることが得意な人がいて、私はこのひとに教えを受けているような感じがする。

「Spilitualityについてはよくわからない」といいながら、私に、世界がSpilitualであることを示すこのひとを私はこっそり尊敬している。

 

 

あ、筝曲の初稽古のこと書き忘れた…。まあ滑り出しは順調?

「真剣に稽古にとりくんだ経験は、決してあなたを裏切らない」

この言葉が師匠からのお年玉。
今年も、自らの限界に果敢に挑んでみる。初めは下手くそですごくカッコ悪くても、いい。

 

 

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師匠と向き合う稽古場。
雪で鎮まりかえった、師匠宅へ向かう道。