蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№535 わたしができること

ひとを抱きたましひを抱かぬさびしさもあるべしその逆もあるべし  真中朋久
 
 
 
1月7日

降ったよ。暴風雪警報出てる。
我が家みたいな古い家だと、外気温がダイレクトに感知できる。今マイナス3℃らしい。ときどきどーんと雪は降るけれど気温がそんなに下がることはないので、日中にこんなことになるとは珍しい。

 

元気が有り、栄養過多のJK剣士。なぜか私に「ママ、縄跳びしないの?」と聞いてくる。するわけないでしょ、雪降ってるのに。ママにはAsanaがあるからいいんだよ。
その後「雪かきしてくる!」と元気に出て行った。
見上げた心がけである。ご褒美に煮りんごを作ってあげることにした。
私のことが家庭的に見えてきたかしら? 

ブー、不正解。ママが、こんな寒い日は煮りんごを食べたいと思ったからです。シナモンスティックとグラスフェッドバターを使った、シンプルかつ贅沢なデザート。もちろん無加糖。

 

約1時間後、戻ったJK剣士が家族に順番に声をかける。
「ねえねえ、カマクラない?」

カマクラる
=(動詞)掻いた雪を母の車の前に山にし、それに穴を掘ってカマクラにすること。
 

が、しかし残念ながら誰も乗ってくれなかった。
そりゃそうだよ、この家で冬休みなのはJK剣士だけなんだからさ。私がこうしてPCの前に陣取ってるのも、ほんの数か月前まで「遊んでる」と思っていたそうである。ある日ブチ切れて「遊んでばっかで人の話聴いてくれない!」と言うから、「遊んでないわ!」と言い返すと、本気でキョトンとしていたな。いずれにしろJK剣士は生まれたときから今までずっとかわいい子なのである。

ところでね、先程、母の車の前に雪山をこしらえたと言ってましたよね? それ、ほんとに大丈夫なの。車出られなくなってるんじゃないの…

 

 

さて、今日は信念の話をしようと思う。

生徒さんにヨーガを教えるようになって知ったことがある。
だれもみな「自分が語る自分」の道をそのまま歩んでいるという、その怖い事実。

最近は東京に行くことも多く、とんがった人と話をすることも増えて、そういう方が語る「あなた自身」はとっても力強くて魅力的。対社会的なことに関して私はなにもわからないが、どんな思いで今のご自身を創り上げられたのかがそのお言葉から垣間見え、素晴らしいと思う。こちらは良い例。

ところが誰しもがこうではないことは、これをお読みになっている方には容易に想像がつくだろう。私は開業以来、鳥取県を中心に指導を行ってきたのであえて「T県バージョン」と呼んでみよう。


T県バージョンでは、自分自身は主体ではなく、被害者の様相を呈していることが多い。何が私に被害を負わせているのかというと、ザックリいうと自分以外のすべてである。

なかでも心に残るタイプの話がある。これはお一人だけに伺った話ではないので、そのおつもりで。「自宅から離れた学校に通学する高校生の子供のために、早起きしてお弁当を作らねばならないから大変だ」というネタ。

 

もしこの話を私が別のシーンで聞いていたら… いや、たぶん聞かないんだけど、「もし」っていう話。わあ、たいへんねえ、っていうのかもしれない。

でも教室で聞いたら、そういう反応はしない。どういう反応になるかは、お相手によって違うので紋切り型でアプローチする訳でもないが、着地点は決まっている。

 

黙ってやるか、断固対決するかで決めろ。
どっちでも構わないから。
しかし私の心の落としどころと、私の決心に確信を持つことである。どんなに時間がかかってもいい(その場合、いつのまにか問題が別のものにスライドしている可能性がある)。文句を言わん自分を、養い育てていくしかない。

 

かつて集中内観修行に入ったとき、3日目の晩にこういう対決をする羽目に陥った。
100人いたら98人が「わあ、そりゃーひどいわ」と言ってくれる(と私が思い込んでいる)経験に関して、面接者の先生が「あなたが悪い!」と私に言い放った。というか、言い切った。

悔しくて腹が立って泣いて叫んで暴れて、明け方疲れ果てて死んだように眠った記憶がある。翌朝目も顔も腫れている私を前にしても、先生は涼しい顔。

 

なぜ、因が私にあるのか。それを引き受けることは、容易なことではない。

ただ「自分がバカだった」と言えたとき、私はこの世に自分の足で立つ力を手に入れる。力を取り戻すことができる。

すべてわたしの選択であったと思うとき、世界が違って見える。たぶん世界の成り立ちが根本から変わる、そう信じている。

だから「弁当と早起き」問題一つとっても、スルーなんてしたくないのである。
私の人生にこの子が与えられ、その子がこういう人生を生きるとき、弁当を作ってやる自分をすごいと思うか、弁当くらい自分で何とかせいと突き放してその子の力を信じるか、どっちでもいいんだけどイヤイヤやったり文句言ったりしないほうがいい。

 

こういう思いをぜひ、健康管理にも適用させたい。

体型や性格、何年もぶり返す些細な症状、ぜんぶ「自分で治したろうやないかぁ!」と決めればよいのである。


ヨーガの人体構造論は皆様よくご存じの「人間五蔵説」。
五臓のうち肉体が持つ領域はビックリするほど小さい。よく人間存在を玉ねぎに例えるけれども、肉体がどの部分かと言うと「茶色い皮」。あの、オーブンで焼くとき以外剥いちゃうような、ペロッとしたあの、薄い皮ですよ?

 

だから肉体に対する自分の影響力を最大限発揮してほしい。まず信じるところから。
根拠? そんなの無くても大丈夫。
理論付けが欲しいならいくらでも教えてあげられるけれども、問題はそこじゃないからね? あなたが、あなたのほんとうの主人であるかどうかだけですから。
「随所に主となれば立処皆真なり」



例外だと思うものを一つだけ。
「妊娠病気説」に関して。
自ら以外の命をも引き受けるとき、肉体が翻弄されても仕様がない。そういう意味合いで、病気のように大変な経験になることがあると思っている。ただ存在として非常に豊かな経験であるし、当然これも、大きな枠組みではあなたが望んで引き受けたもの。
だからがんばって!