蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№661 毒でも、愛なら

信仰を持たないわれも祈りたくなることがあり手で手を触れる  中島祐介

 

 

5月14日
秘密の場所に籠るJK剣士にせっせと食料を運ぶハハ。今日はリクエストによりカラアゲ弁当を運んだところ、「梅干し、ウマっ!!」と目を閉じて嘆息している。カラアゲ弁当の隣に日の丸ごはんがあった訳だ。渡米前、JK剣士は梅干しがキライだったが、とうとう味わえるようになったらしい。「渡米による梅干し効果」と命名し認定された。


何しろマスターマリコのところに滞在していた訳だから、いろいろと新しいことに触れる機会が存分にあったJK剣士。ちゃんとお金を払って約4時間、キネシオロジー(筋反射テスト)の勉強をしてきたという。へえ!と思い、今日の掲載歌を選ぶのを手伝ってもらおうかと思い立ちテストしてもらったのだが、結論は「…どれでもいいんじゃない」という甚だ気の抜けた回答であった。大したことないことで試すなよ、という我が潜在意識の抵抗にあったような気がする。

自分に合う食材などをテストできるそうだが、蕎麦にトラウマのあるJK剣士は潜在意識も蕎麦に対してNOを言っているそうである。だからやっぱり蕎麦は食べんと言っていた。グルテンにはほとんどの人がNO、アルコールやたばこもOKが出る人はほとんどいないらしい。

聞くところによるとこのテストは「今この瞬間」のことがわかるそうで、未来のことなどはわからないらしい。ハハはYogaの勉強をしてきたせいかほんのちょっぴり傍若無人なところがあるので(慧心師の薫陶を受けたので仕様がないのです…)、自分に合わない食材などを自分に対して聴きたくない。だって聞いてしまったら、その食材と向かい合ったときに「あー、そういえばこれは前カラダがNOと言っていたな」という思い込みがジャマをしそうだから。でもそれって不自由だなと思うのだ。

今のことはわかる、しかし先のことは、私の根本と言えどわからない。いったいなにに影響を受けて「今こうである」私が変わるかどうかはわからない。なんといっても私は万処に遍在するものであって、あらゆるものと緻密に関わり合っているものでもあるから、今ダメななにかが次の瞬間にはOKになる可能性にいついかなるときにもオープンでありたい。それが、自由っていうことなんじゃないかと思う。

Yogaなどをやりだすと、食事が気になってくる。まあYogaにはAyurvedaという姉妹がいるのでそちらに踏み込んで両方の実践を気にしだすと、菜食×断食という健康そうな習慣にアタマからツッコんでいって、なぜか逆に甚だ不健康なことになることが多い。私も色々苦い思い出がある。
しかもこの状態になったひとは間違いなく(かつての私ももちろん)「自分がすごいことをしている!」という高揚感に捉われて、「いいよいいよ」と人に勧めまくりたくなるのである。これは菜食×断食をはじめたら必ずセットでついてくる、避けがたいおまけである。なので、今その渦中にある方は存分にそのおまけを味わい尽くしてください。

そして菜食×断食をどんなレベル感であっても採用したら、やはり人生や肉体が変化が生じてしまう。ようするに健康になっちゃうわけだ。そうすると次に経験するのは「Aを食べたら調子がよくて、Bを食べたら調子が悪い」というジャッジの世界である。
ことろがどっこい、これもまた一過性のとおり過ぎねばならない経験だと思うんですよ。


たぶんスワミ(=師に対する敬称)・ヴィヴェーカナンダの著作「ラージャ・ヨーガ」に書いてあったと思うのだが、こういう食実践を始めたばかりで、まだ心身及び存在が浄化しきってない場合「そのものによって左右される」と。
いわゆる悪いものを食してしまうとイヤーな感じになり、いわゆるよいもの(現時点で私がそう分類しているもの)を食すとイイ感じになる。ところがどっこいヴィヴェーカナンダ大師は、それって初心者だから、みたいなことを言っておられた(と思うんだよね)。

じゃあ修行が正しく進むとどうなるの?という話をよく慧心師がなさる。
慧心師の師匠であり私たちにとっての大先生はスワミ・ヨーゲシバラナンダ大師様だが、この方が日本に来日された時食べ物なんか、もう一度言います、”食べ物なんか“のことは一言も口にされなかったと。お大師様は菜食の方だったけれど、「あ、俺は菜食なんで、そこのところ配慮頼むよ」なんてことは決して仰らなかったと。

お迎えする方々はどうしていいのかわからず、毎日毎日ご飯とみそ汁と納豆しか出せなかったらしい。今みたいにインド食材が手に入る時代ではなかったし、今みたいに情報が出に入る時代でもなかったら。でもお大師様はいつも、美味しい、ありがとうと言って喜んで召し上がられたと伺う。お迎えなさった皆様方は、どれほどホッとされて嬉しく思われただろうか。

だから慧心師は私たちにいつも言うのだ。
「たかが食べ事でガタガタいうな」と。

目の前に出されたものが肉だろうと毒だろうと、「ありがとう、これを供して下さったあなたのお心持ちこそがほんとうにうれしい」と言って口にするとき、すべてのものが滋養となる。Yogiならばそのように生きろと慧心師が仰る、そのことを私たちは大事にしている。

粗雑体はまあちょっとは何とかなるかもしれないが(毒に汚染されるかもしれないが)、それ以外のボディ(生気鞘から歓喜鞘まで)はなんともないのよ、何食べたって。そもそもちょっとくらい肉のカラダが汚染されたからってなんだっていうのよ。
私というものはけっして傷付けられはしないし、かつて一度たりとも傷付いたことはない。そういう心持ちを養っていくのがほんとうのYogaだと思うんだよね。

目の前の、私を愛してくれている人との至福の時間が過ごせるなら、私はなんだって食べる。たとえ毒を喰らったとしても、それを至福に変えることができるためのYogaをやってる人で、私はありたい。

なぜならば、今一緒になにかを食すあなたを愛しているから。こころの底から。
あなたが私に向けてくれる愛を、疑いもなく信じているから。

 だからただ、ありがとう。