蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№534 曖昧さに耐えて

衛星になろう あなたに堕ちないでいられる距離をやっとみつけた  田中ましろ
 
 
 

1月6日

明日から寒波が来るからと、しっかり者の長女に「買い出しに行くべし」と命じられた。私は日用品の買い物が大嫌い。成城石井でビールやチョコレートを選ぶくらいならともかく、家族の用を満たすものをあちらこちらと買いまわることは甚だ面倒である。しかもJK剣士のような育ちざかり・食べ盛りの人の食材を含んだ買い物は、量が多くて重い。

コロナのせいで人生で初めてこんなに暇な冬休み(幼児の頃から稽古をしているので、お正月は行事で満載だった)をだらだら過ごしているJK剣士を強制連行して、食料品、日用品、そして何より大事な暖房用燃料を買いに出た。ママはからだも気も弱いから、灯油缶とか持てないのよ。

 

スーパーマーケットの駐車場には年末年始に降った雪を積んだ雪山があり、はるかに望む霊峰大山の上には「そろそろまた降らせちゃうよ?」と言わんばかりに厚い雲がかかっている。JK剣士はその雪山をわざわざ乗り越えようとして「回り道はしないタイプなんだよね」と言っていた。いったい誰に似たのだろうか。

予報では木曜から月曜まで降り続けるようだから、その間できれば外に出たくないなあ。以前、雪の多い地域に住んでいるときには「雪くらいなんだ」という感じだったが、下界におりてからどんどん雪に対する姿勢が怠惰になってきている。
避寒のため冬だけ静岡に移住したいくらい。それで山菜が食べられるようになってきたら帰るとか、いいなあ。

 

 

今日は三絃の「ひとり稽古始」をした(遅い)。
東京から戻って以来雑事でバタバタしていたのだが、今日ふとそろそろ弾いておかないと、と思った。
理由は、買い物帰りに高島屋(米子にも一応ある)に寄ったから。JK剣士の希望でオーブントースターを衝動買いしたとき、「飛躍」という演奏会で好まれる華やかな箏二重奏の曲が流れていたのだった。当然私も何度か弾いたことがある。替手、という伴奏パートがけっこう難しい。
ああ「飛躍」か…やばい楽器弾いてなかった…、という連想が生じたので帰宅し早速稽古した。「御代の祝い」と「越後獅子」。

春風に 野辺の草木も萌え出でて 
めでたき今日の陽の光 
鳥は歌ひて 花は舞ふ…       (御代の祝い)

本年の空気感も、自分自身の心理的にも一向に目出度くはないが、箏歌くらい目出度くてもいい。
師匠の下での初稽古は週末である。これは雪だろうが槍だろうが何が降っても行く。今年もがんばらねば。コツコツ、一歩一歩ね。

 

昨年の夏以来、ぼんやり度が増していた。
でも同時に、わたしのなかでの「一者」の存在感が増してきたような気がする。

昨晩は新年初の鍼灸治療だったのだが、年末年始に長く出かけていたにもかかわらず心身共に絶好調である。年末に請求書を2件出し忘れていて「しまったああ!!」という事態に陥ったものの、これも「だからなんやねん」と言う心持ちである。何とかなるんだって、焦んなかったら。
以前(2年くらい前)はこういうことがあると、朝方「カッ!」と覚醒して心拍数と血圧がバクバク上がるのを「うわー、上がっとるわ」と見て(感じて?)いたものだが、今年は上がりもしない。年末に少々心労を覚えることがあり、就寝時に胸痛で目覚めることがあったが、これも「一時的、心理的なもの」とのことでなんくるナイのサー。

 

 

生きていて苦しいことや悲しいことがないとは言わない。そんなことは絶対にない。
私にも粗雑体としての肉体があり、鮮やかに動き羽ばたく心がある。

バレンタインデーの広告を見ると、毎年いの一番に「こだわりのひと」おにいちゃんのチョコレート選定に入って、ああでもないねこうでもないねと子供たちと相談し合っていたことを思う。しみじみ、じわじわと哀しい。友達を喪うということはこんなにも寂しいものなのか。

先日、“新年バーMARUJIN初め”で「新年に相応しいガツン!とくるショートをお願いします」とオーダーしたら、「これしかないでしょう」といってお兄ちゃんが大好きだったマンハッタンを出してくれて、誰も何も言わずそのことに触れないのに、その場でお兄ちゃんを知っている三人のあいだに温かいものが共有されたことも確かなのだった。
同席していた常連のH先生が、がん細胞が挟まったプレパラートを見せてくれたのも、おにいちゃんが天から采配した洒落だったのかもしれない。

世界でたった一人のママ友が近所に越してくることになって、これでまた一緒にバーに行く仲間が増えた。なぜ引っ越してくることになったかその理由はわからないけれど、人生は悲喜こもごも、あざなえる縄の如しだから、どんなことがあっても「そうかー」といってそこにじっとしているしかない。

 

今日のお昼、大好きな人とおしゃべりをした。大好きな人だが、全然色気のない会話になるのが私は大いに不満である。今、私は規夫師匠の文章を読んでいるからそのことについての話から始まり、人間いかに曖昧な状況に耐えうるかが大事だよね、という話題になった。

わかんないのである。
どんなに努力しても、どんな働きかけを世界に対してしても、必死に目の前のひとに関わっても。
思うようにはならないのが人生だから、深い哀しみを内に湛えつつ「御心のままに」と祈る以外に、役に立つ働きかけなんてたぶんないのだ。それはときに途轍もなく寂しく苦しいことであり、同時に平安でもある。

でもたとえどんなことがあっても、わたしのなかの大きななにか(わたしはそのものに「絶対者ブラフマン」という呼び名をつけている)が、絶対に私を守ってくれる。
守ってくれた結果としてこの現身が喪われ、愛する人とわかれることになっても、誰も何も恨まないでいたい。

 

今、大きななにかの顕れとしての、個別の存在に注意を向けるよう促されていて、これまでそんなことに経験がなくて戸惑っているけれどもきっとなにか訳がある。そしてそれが他の誰かのためになるからこそ、このことを経験しろと言われている。

おおきななにかの、私にはどうなるか知ることのできない仕事の前に頭を垂れて、この曖昧さに耐えていたい。

私というものになんの意味もなくても、こうして私かがなにかに向き合うことに、大きな働きのなかの意味が、

確かにあるはずだと信じて。