蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№522 出し袱紗、歌集

君という特殊部隊が突き破る施錠してない僕の扉を   木下龍也

 

 


12月27日

大崎滞在中。連日、ゲートシティの成城石井さんにお世話になっている。大好きな杏仁豆腐はジャンクなスイーツなので、次(1月)の出張までお預け。月に一回だけの逸脱。キノコのマリネとか、鶏団子スープ押麦入り、雑穀入り根菜サラダ、そしてゆで卵などを食べている。会計が済んだ後に「またご利用ください!」と言われて「うん、また来るね!」と思う。


ところが!本日はクライエントさんからの差し入れでゴッツイご馳走を頂いてしまった。お寿司ですよ!「バラ散らし」って言うんだって(ここ、LINEならうさぎさんのハートのスタンプが入るところ)。ちらし寿司ってどれくらいぶりだろう? ほら、米子にいると境港に上がるネタを使った回転ずしばっかり食べて、時々せいじさん(米子の悶絶美味しい寿司処)だから。嬉しいな、お心遣いありがとうございます。とっても美味しかったです!各地のお寿司文化ってほんとに深いですね。


出張中は基本1日1食。なんとなればこの1食が豪華すぎることが多いから。家で豆腐、厚揚げ、麦ごはんかふかし芋を食べてるのとわけが違うからね。出張時に食べ過ぎ飲み過ぎで調子を崩すことが多い。だって珍しくて美味しいから。それで帰宅後に鍼の先生に叱られてしまう。楽しくて調子に乗り過ぎて、自分の内臓の具合を無視してしまう。普段の食生活が戦時中みたいだから、ギャップが大きすぎて内臓がビックリしてしまうのだと思う。



さて、本日は日本橋高島屋に行ってしまった。
出来心でまた「いきなり美術館突撃」の暴挙に出ようとしたのだが、今回のターゲットである三井記念美術館では刀剣を展示してあるという。刀かあ。JK剣士のママとは言え、武器には興味ないんだよな。日本橋まで行っといてから調べるのもどうかと思うが、ここで目標を高島屋の美術フロアに変更して再突撃である。

タカシマヤの美術、そういうフロアがあるんですよ。隅っこの方に。ご興味にない方にはとことん縁のないところかと思いますが、私にとっては茶道具があるところ。そこへ「なにかいいものないかな~、私に手が出るもので~」と思いながらフラフラ歩いて行った。白磁の茶碗、88000円(税抜き)、蓮の柄。これは良いなあと思った。茶碗で88000円なら全然アリやろ。また、仁清の三柑の柄(三種類の柑橘の絵)のお稽古用の茶碗、約5000円。これもよかったなあ。”長生きしてよね!お願い!”という気持ちが溢れかえっているお茶碗、やっぱり買えばよかったな。

ミカンってみなさんにとっては冬のおやつですか? 
私はあまり甘いミカンは食べないので、柑橘って言うと「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」のイメージ。「橘」の実、要するにミカン。田道間守命(たじまもりのみこと)が垂仁天皇の命を受けて、不老不死の理想郷「常世の国」で求め歩いた不老不死になれるというたべもの。古事記日本書紀にあるエピソードですね。せっかくたくさん持って帰ったのに主上は既に身罷られていたという結末は哀しすぎるが、もし間に合ったらきっとこの実を食べて主上も長生きなさったはずなのだ。そう思うと、柑橘の明るいエネルギーに満ち溢れた色味が、実に素晴らしいものと思えてくる。

橘と言えば、山本健吉作詞、團伊玖磨作曲、長崎県北陽台高校の校歌「さつき待つ花たちばなに むかしの香いまもただよふ」を想起させられる。自らの高校の校歌は記憶の彼方なのにこの高校の校歌を覚えているのは、当時私が吹奏楽部に所属していて、毎年「長崎県立五校合同演奏会」に出演し5つの学校の校歌すべての伴奏をしたからである。さすが團伊玖磨、そして山本健吉。素晴らしい曲。ご興味ある方には歌って差し上げたい。なんというか、皐月の風”薫風”を感じさせられる歌なのである。爽やか!

 

 

買いもしなかった茶碗のことはまあどうでもよくて、高島屋の美術部・お茶道具コーナーで求めようと思っていたのは「出し袱紗」である。

茶道では”濃茶”が正式な茶である。
濃茶は点てない。練る。時間をかけて丁寧に練ると、深緑の茶の色の”照り”が変わる一瞬がある。それを見極めるようにして、練る。お一人に対し三杯もの茶を使用し、お菓子もその茶の濃さに負けないようしっかりしたものをお出しする。
割稽古*であっても、理想的には何方様方が炭点前をなさって、濃茶点前の最中に香が薫り、湯が盛んに沸くという状態で稽古したいものだ。

*割稽古:茶道の稽古は「茶事」のロールプレイである。一度のお席が何時間もかかる茶事の、部分を分割してお稽古する形式は江戸時代に定まったという。稽古の際には、自分が行う点前が茶事のどの部分にどういった意味合いで配置されているのかを意識するように指導される。

濃茶をお出しするときには、お茶碗にこの出し袱紗を添えて差し上げる。お客様は出し袱紗に茶碗をそっと乗せて、茶を頂かれる。表流で稽古する者にとって必須の道具である。ちなみに他のご流儀では、用い方や袱紗のサイズが異なる。

もし茶会に招かれて、ご亭主が素晴らしい出し袱紗をお出しくださったときには、それを用いずに自分の使い袱紗(朱の袱紗。通常の点前の際、道具類の浄めに用いる。茶会には使用感のないきれいなものを持参するのが心得。)で代用させて頂き、後程拝見のみさせて頂くこともある。出し袱紗というのはそれくらい貴重なものでもある。うっかり汚してしまう不心得者がいるので注意しなくては、貴重な袱紗がもったいない。

「布」というものが貴重なものであるという認識が現代人にはあまりないが、「名物裂(めいぶつきれ)」というものがある。鎌倉時代より江戸時代にかけて、主に中国 から日本に伝わってきた最高級の織物のこと。北欧のマリメッコやフィンレイソンの布もいいが、こちらもいい。どっちも知っているのが粋のような気がする。

織には金襴(きんらん)、緞子(どんす)、紹巴(しょうは)などの種類がある。茶では、茶碗などだけではなくこのような裂の拝見もご馳走なので、稽古を通じて織や柄に対する知識を蓄積させていく。柄行にも様々なものがあり、吉野間道(よしのかんとう)、青海波(せいがいは)、鱗鶴(うろこづる)などなど実に多彩である。当然ながらお稽古で用いるものは古い裂ではないけれど、そのつもりで稽古する。だから布の道具はあちこちを触ってはならないというルールがある。ご存じない人がガッ!と掴むと、心臓が止まりそうになる。裂は襤褸になったらこの世から消滅してしまうのだ。そっと最低限の部分(縫い目など)をつまむように、大事に扱うことが肝要。

濃茶の稽古を許されればこの「出し袱紗」を持つことになるし、唐物の点前を許されれば出し袱紗でもとくに柔らかい布地のものを選んで調えることになる。

私が初めてこの出し袱紗を購入したのは今から18年ほど前。紅く可愛らしい宝尽くしの紋様だったように記憶しているが、今は長女が使用している。彼女が濃茶の稽古を許された際にこの袱紗を譲り渡し、新しく求めたのが「麒麟牡丹緞子」。これは次女が好んだものを求めた。かなり渋い趣味である。牡丹の絵柄がヒマワリに、麒麟はふつうにキリンに見えるので、拝見の際に「ヒマワリ…キリン?」と首をかしげる方がたまにあるが、緞子にヒマワリとかキリンとか、そんなことあるわけないって…。 

唐物のお許しを頂いたときには、即中斎宗匠(13代お家元)お好みの「不審瓢箪」を、薄い藤色の地で。唐物点前を許されるということは即ち「講師になる(なれる)」ということであるから、この袱紗も私にとっては特別な記念の品である。長女が唐物を許されたときにはお師匠さまからお祝いで唐物袱紗を頂戴し、私がお免状を頂戴したときには、これも祝いとして袋師・友湖さんの使い袱紗を賜った。袱紗とは、そういうことにも用いられる。

そしてこの度、この年を節目として永く記憶するために出し袱紗を新しく調えようと思い立った。
道具として求めれば、その記憶はたぶん私が死ぬまで途切れることがない。
茶人にとって道具とはそういう存在のものである。そこに物語が生まれ、その物語と思い入れを持ってお客様にお茶を差し上げることになる。この度この袱紗を求めるきっかけとなった思いと共に稽古を重ねていく、それは実に豊かなことと思える。
もしお客様からお尋ねがあれば、深い記憶に残る年に、日本橋高島屋で、思い出を大切にするために求めたものでございます、とお答えすることができるだろう。

さすが日本橋高島屋さん。何十枚もの袱紗のなかから、腰を据えてしっかりとえらばせて頂いた。水色の地、而妙斎宗匠お好み「松宝(しょうほう)」、薄い朱の地、即中斎宗匠お好み「青海波壷壷(せいがいはつぼつぼ)」かで葛藤した。悩んだ末に選んだのは、後者である。

つぼつぼとは、小さな丸い容器のことで、もともとは子供のおもちゃと言われている。利休さまのお孫さんにあたられる宗旦宗匠が、信仰していた伏見稲荷のお土産として売られていた田宝(でんぽ)という陶器のおもちゃを、その形の愛らしさから千家の替え紋にしたのがきっかけで以来この形を『つぼつぼ』というようになったとのこと。千家にとっては大事な紋様であり、私にとっては名字にゆかりがあるためとくに思い入れを感じる。

人が生きることは波のようであると思う。
ときに、翻弄され苦しいように感じながら、私たちの根本存在は決して揺らぐことがない。そのたしかな土台の上に、私たちは夢を見て生きている。その象徴としての青海波、そしてそこに遊ぶ私を示すようなこの紋様に思い入れを持ち、新しい年も稽古に臨んでいきたい。


 さて、高島屋さん前のMARUZENで、探し求めていた歌集を求めることができた。さすが東京は文化の厚みが違う気がする!歌集がずらり、でしたよ。どうしても気になっていた、木下龍也「きみを嫌いなやつはクズだよ」(すごいタイトルだ)、雪舟えま「たんぽるぽる」の二冊である。歌集は今の私の心情にフィットするものとしないものの差が激しいが、これがダイナミクスってやつだろうと思う。来年、五年後、十年後、その都度違ったように歌集が読めるような日々を生きるんだ。

昨日もそんなこと言ってたな。 どうした?私。 

 

 

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こういった道具は、大切に扱うことで何十年も用いることができる。
今日、そして今の思い出とともに。