蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№456 思考停止でなく

刻々にくり返す波として私は生きている
明日を知らないこのからだも
今日ならたしかに知っているのだ       

「陽炎」 自選 谷川俊太郎詩集

 

 

何かの決まりに従おうとするとき、いつかどこかで、なにかのために、誰かが仮に決めたものが定着し、それを変えたり工夫したりしたいと思いつつも面倒だったり話し合いがうまくいかなかったりして、渋々そのままになってしまった仮のルールについて論じているのだということを、私たちはいつも忘れている。

この世で確かなことはたったひとつ。
すべてはうつりかわり、なにひとつとして定まることがないということ。

それなのになぜ、すべてが決まっていて変えることができないように私たちは語ってしまうのだろう。ほんとうはなにもルールがないと知っているからこそ、目の前のひととのやりとりや、やりとりで知ることのできないそのひとの内面について尋ねたり、推し測っていこうとすることが大切になる。

正式な茶である濃茶を差し上げるとき、もっとも大切なお客様(正客)が一口お飲みになったタイミングをとらえ「お服加減はいかがでございますか」とお尋ねする。
お客様は「結構です」とお応えになる。この味は好みではないと思ったら点てなおしてもらってもいい。でも決してそんなことにはならない。

ではこのやり取りは形骸化した血肉のないものかというと、それは違うと私は思う。
昨晩も、茶道に憧れながら敷居が高いと感じ一歩を踏み出せなかった方と出会った。
ヨーガと茶道(さらにいうと元自衛官という経歴)が誰しも結びつかなくて、戸惑った笑いを漏らされるがそれは構わない。ひとは誰しも、そとがわから単純にわかるようなものではないから。

お茶という文化のうえにある茶道というお稽古でいったい何を学ぶのかといえば、これもヨーガと同じで非常に幅のひろいものを含んでいて簡単には言えない。茶は総合芸術ともいわれるので尚更だと思うが、そこを敢えてシンプルにそして乱暴にくくるならば、

・だいじなものをだいじにあつかう(客としての学び)
・ひとを大切に遇する(主人としての学び)

ということなのではないかと思う。あくまでも私の偏った考えである。

茶道には「お客ぶり」という言葉がある。客としての在り様を示す言葉だ。
客としてどのようにふるまうか、ふるまえるかは、実は点前よりも難しいこと。

席を同じくする人が毎回違う、そして人は日々コンディションが違う。そのときに隣にいるひとに問診のようなことをせずに、そこに寄り添う。

ヨーガのクラスでは必ず訊ねなければならない。「今日はどのような具合ですか?」と。訊ねない先生が多いのかもしれないが、ヨーガのように潜在力をもつ手法を用いるときに、相手の今のことを知らずに何かを提供するなんてとても危険なことだ。

でもお茶では聞けない。だから会話で推し測っていく。ご一緒する方(連客)を慮り、お茶を下さる主人(亭主)を慮る。このふるまいが、そのひとのお客ぶりによって差が出る。茶を学ぶことで私たちは素敵なお客様になっていく、なっていきたい。これがお客ぶりという言葉の示すところ。

感度を最大限に上げて、茶室という空間のすべてを感じ取りたいと思う。
床の間になにを掛けて下さったのかな。どんなお花を活けて下さったのかな。道具は、香は、使用される抹茶の種類やお詰め(茶店)は、お菓子は? なぜ今日、この季節のこのタイミングでこのようにしてもてなしてくださるのか。
そして感じ取ったことを適切に表現して、気付いています、喜んでいますということをしっかりと伝えたい。

お茶という学びを通じて、私は耳を澄ますことを学んだと思う。
言葉では語られないなにかに耳を澄まし、聴こえない音を聴こうとする。
このことがわたしの仕事や生活をどれだけ豊かにしてくれているか知れない。

既存のルールや形骸化した決まりに無感動に考えなく従うのではなくて、目の前のひとに耳を澄まし、また香を利くように内側の粘膜でなにかを感じ取りたい。その上で動き始めたい。
ともに過ごす人の問いに、おいしい、たのしいと申し上げるとき、その言葉が自分という存在の奥底から立ち現れる真実の言葉であるように、自分に決して嘘をつかずに生きられるように。