蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№419 経験を感じ切る

「一切の生類の統覚機能は、つねに私の純粋精神によって照らされるべき対象であるから、一切の生類は、一切智者にして、悪を持たない私の身体である。」
 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ10-6



人は生きていると、どうしても経験がパターン化していく。
いつも同じ場所で、同じ人たちと、同じようなことを語り合い、新鮮な驚きをもって毎日を生きることが減っていく。

自分自身の感度を維持、もしくは向上させていく努力というのは実は難しく、だからこそこのことが大事にされている。これを「初心」という。

ここでも度々茶道のことについて言及しているが、ヨーガと同じく、ただ点前の稽古を行うだけではあまり意味がないのではないかと、私自身は考えている(当然そのような楽しみ方もあって良いとも思う)。

茶の凄いところを一つ挙げると、その時の一瞬の季節を切り取り、クローズアップして見せてくれるという点である。もちろんこれには、茶室や稽古場を調えて下さる亭主や先生の存在やご努力が不可欠である。

茶の稽古を怠っていると、季節はあっという間に移ろっていき、その微妙なあわいが感じ取れなかったりする。また、毎年違う季節の在り様に思いを致すこともない。

ちなみに今年、感染症のことで鬱々とした5月に、毎年お約束の「薫風自南来」のお軸が掛からなかった。
夏の気配を感じさせる風薫る季節、そういう空気感ではなかったのだ。
5月と感染症に直接的な関連はないわけだが、世の中の空気はある季節の風の感じ方まで変えてしまうということに対する感受性をこそ、茶の稽古は育てているのだと思えた。

このような稽古を通じて、私は自分自身の感受性を育ててもらったと感じ、またそれがヨーガ指導という仕事に結晶化されているように感じられる時がある。

何を言おう、何を教えようということではなく、目の前の方の醸し出す空気感に触れて、そこから感じ取れる何事かを、たださし出し、それを受け取って頂けることでそこに関係性が築かれていく。亭主と客の研ぎ澄まされたやり取りと、生徒さんと教師としての自分のやり取りは、どちらも同じようにお互いを滋養してくれると感じる。

感受性を育てても、経験することが限定的だと世界は広がっていかない。
これまで非常に限定された世界のなかで、息を潜めて行をするように生きてきたように思う。

全く知らない経験を前にして、何をどう感じ、それをどう受け止め、最終的には受け容れていくのか、新しい仕事のやり様や、そこから生じた大切な人たちとの関係性の中で、今大いに葛藤をしている。
この葛藤をいつの日か、自分にとって得難い大事な経験であったと振り返ることになるだろう。そこに一切の疑いはない。

「より重要なことは、そこに生起するものを感じ抜ける(feel through)こと。
 実践とはつまるところ、喜びと痛みを感じ抜けるということ、そしてそれを超えていくこと。」

約10年ぶりに復刊された本も、以前と同じように私の臓腑に刺さる。
喜びと痛みを感じ抜き超えていくということを、10年前には持っていなかった感受性と共にやり抜き、新しい世界を見たいと思う。