蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№457 能動的に

11日間の不在。ウクライナに行っていた時よりも長いのではないか。
ようやく帰宅した。子供たちも「さすがに寂しい」と言い、私も夢中だったとはいえ久々に娘たちの顔を見るとたまらなく嬉しく、ずいぶん成長したように感じた。
長女がわたしの顔を見ながら「元気そうでよかった!」と言ってくれたとき、この子も大人になったと思った。

人は、今の自分を「十分に満たされている」と思えないかぎりどこにも行けない。そしてたぶん、不足感を抱いたままでは何も始まらない。
これは東洋でいうところの知足の概念。

私はすでにすべてをもっていながら、それを受け取りきれずに嘆いてばかりいたのだと気付いた。娘たちをはじめとして、私を気遣い、楽しいかしあわせかと案じてくれるひとがいる。そういう方々から頂いた力をもって、私は自分の仕事に向きあい、頂いた力をわかちあっている。そのことに気付いた。


不在の間休んでいたお稽古にも、久々に上がらせて頂いた。朝は茶道、夜は筝曲。
師の下で様々な経験をしてきたが、今日もまた二度とはないような出来事があった。
どんなことがあっても穏やかな笑みと共に、言葉少なく受け容れて下さる師の揺るぎない存在感に支えられてこそ、長い間稽古し続けられたのだと改めて思う。
このような方のおそばにあって、私もまたただ淡々と、今できること、今目の前でこの瞬間私に求められていることを尽くすしかないと思い定めることができる。

茶の湯の世界では10月は名残の季節である。
ある歳が、ある季節が去っていく。もう二度と遭うことのない瞬間が過ぎ去っていくことの寂しさと、そして一瞬の美しさを思う。
風炉は点前畳の中央に、お客様により近い位置に配置され、細水指が用いられる。
風炉の点前ももうこれでお仕舞、という寂とした空気のなかに「本来無一物」のお軸が掛かっていた。

何者かになろうとして努力してみたりしたとしても、私たちは名もない者でただそこに存在しているだけ。この世に生まれ出て、いつどこへ還っていくのかも知らない。いつか帰っていくところがどんなところかも知らない。
帰っていくことを怖がったり哀しんだりするが、そこは私たちがもともと生じた原因でもあるところ。だから本当は何も怖くもないし、このからだは教えのとおりだとするとただの物にしか過ぎない。

でもこの物としての身体をもって私たちは人と触れ合い、愛し合い、心地よさを感じたり、良い香りを聴いたりするのだ。有限のものをもって、無限のなにかと触れ合おうとする。

今日の稽古、この点前のことを私は二度と決して忘れないだろう。
心は鎮まりかえり、此処にいて茶を点てながら、今ここで会えるはずのないひとのそばにいるように感じる。私の心の奥底を、師が理解し優しく見ていて下さるのを感じる。
「お仕舞にさせて頂きます」のご挨拶を、かつてこんなに丁寧に言ったことがあっただろうか。いつも必ず先になにかがある心地で、言わねばならないからと、軽く言い飛ばしていたように思う。

点てた茶は表流らしく、池に月が映るようだった。

 

悲しむことも、苦しむこともしたくないから、好きだと思うものや人から身を引き離して生きようと思っていたことがあった。今もその思いが完全になくなったとは言えない。誰かに話を聴いて欲しい、甘えたいと欲する自分の心は醜い依存心のように思え、それを煩わしく思う気持ちもいまだに強くある。

でも没交渉で生きるよりも、人を愛したい、愛そうという能動的な想いに身を捧げる方がいい。時に恐れが心を揺さぶるとしても、すでに十分に愛されていることを思い出しつつ生きる方がいい。

 
 こんなにもふざけたきょうがある以上どんなあすでもありうるだろう  枡野浩一