蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№493 寂しさ、一瞬の美

きれいごとばかりのみちへたどりつくわたしでいいと思ってしまう  笹井宏之

 

 

 

おなじ千家流で茶を学ぶ弟分がいる。
茶の禅的な側面を大事にする思いが似通っていて、ウマが合う。裏さんと表流ではこまかいことが違うけれど、兄弟関係にある流儀なので大筋は一緒。

 

彼のご自宅には、早逝されたお父上が造られた広間の茶室があって、数年前のお正月に初釜に招いてもらった。招かれた客のなかで茶歴が最も長いのが私だったので、僭越ながら正客(しょうきゃく。亭主と協力して場をつくる役割があるので、ちょっと大変。)を務めさせてもらった。そうさせて頂いた方が、ご亭主がお楽かなと考えたのだ。そのしばらく前に、師匠宅で正客の勉強をさせて頂いたこともあり、大きな粗相なくお役を果たさせて頂けたかなと思う。


ちなみに余談だが、正客さんとはなかなか大変なお役目なのである。
ご亭主とお客様をつなぐキーマンが、正客。亭主がどんな心づくしで準備をしたとしても、他のお客様があれこれ尋ねたいことがあっても、正客の気が利かなければすべてはなかったことになってしまう。作法、知識、気配り、目配り、空気づくり、それはもうたくさんの仕事があるし、「お尋ね」というトークまでこなさなければならない。

襖がすっと空いた瞬間に「どうぞお入りくださいませ」と亭主を促し、「今日はお招きを頂いてほんとうに嬉しい!」と伝える。点前中も、床のお軸を始めとする設えの説明を絶妙なタイミングで求めたり、「みなさん、お代わりはもういいかしら?」と他のお客様への配慮、「いま使っているお道具を見せて頂きたいわ」というおねだりをしたりする。道具の拝見が済んだら、「これはきっと語りたいはず…」という要点を尋ね、どんなに素晴らしくて感銘を受けたか申し述べ、ラストには本日こうして茶事に加わらせて頂いた喜びを、言葉にして伝える。
お茶って、本当に勉強になるんですよ。対人技術の粋であると思う。体得するのは実に難しい。一生勉強。


さて、弟分のお席の話に戻る。
お茶の仲間だねと言いながら、普段の私がこんな感じ(声が大きく、圧が強い?)ので、実際どんなお客ぶりなのかご不安だったに違いない。お席のあとで「壺井さんは、ちゃんとお茶を勉強しているひとなんですね」と言ってもらった。そう言ってもらえてよかった、ほんとに。

 

 

久々に会ったのだが、本当は8月に会う予定だった。その頃の私といえば、心理的な葛藤はあるし、体調が悪く食も受け付けられなくなっており、健啖家の彼とご相伴させて頂く気力と体力がなかった。そのため、今日まで延び延びになってしまっていたのだが、この夏、職場でとてもつらいことがあり、大きな孤独感のなかで寂しくお過ごしだったと伺い、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

職場と家族という二つの関係性のなかで葛藤を覚えたとき、救いになるのはそれとは異なるコミュニティである。彼もお茶を長く学ぶ方なので、そこでの人間関係に救われたようだった。その第三の場で、豊かな関係性を育んでいって欲しいと思う。好きな人をつくって、いい報告を聞かせてもらえると嬉しい。

 

 

「ともだち」ってむずかしい。大人の友達関係ってなんだろう?
また、寂しさってなんだろう。近くにひとがいても寂しく感じたり、いずれ必ず果たされるであろう約束があっても寂しいことがある。誰かと今、この瞬間一緒にいるときにも、寂しいときは寂しい。

 

 

茶道でいう「寂び」とは、閑寂のなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさだという。村田珠光の「和敬静寂」という言葉が示すように、茶の精神のひとつとして数えられる。寂静、という言葉はヨーガでも用いられ、これは解脱を意味する仏語である。

 

一瞬の美しさを確かに感じ取り、それに感応する。それが茶の心であると思う。
稽古を休まず精進しているとき、季節はほんの数日で移ろってゆくことに気付く。
同じ炉の季節であっても、年が改まる前と後では違う。晩秋の今、しつらえは静かに落ち着き、枯れた風情で調えられているが、年が極まっていくとこの一年のさまざまなことが思い起こされ、ともあれ私たちがここでこうして、変わらずに稽古を続けられることの深い感謝の気持ちが表される。「無事」のお軸が、翌週には「先今年無事芽出度千秋楽」のお軸にかわり、新しい年への希望を含みつつ、ひとつの歳がお仕舞となっていく。

一瞬の喜びを感じ取る気持ちと、その一瞬が過ぎ去っていくことの寂しさに胸が震えることは、表裏一体であるように思う。

 

 

根が暗いので寂しい歌が好きである。つい繰り返し聴いてしまう。同年代女子ならわかるかな?
「スロウビート」 逢えば少しずつ傷付く気がして
「うそつき」   大人になるってなぜこんなに胸が苦しいの
「週に一度の恋人」 愛してなんて口にしたりしない 
「そうだよ」    もう二度と夢にも出てこないで     などなど…

こんな暗い歌を聴いていると、それでも今こうして過不足なく生きていることの幸せが、しみじみと湧いてくるような気がするではないか。やたらと元気な人だと思われている私は、ひとりでいるときには実に寂びているのだよ。

ああ、詫び寂びだなあ…
晩秋の中庭の病葉にも、春の胚芽が含まれているような気がする。


そういえば弟分は、今、桜材の炉縁をつくって頂いているらしい。桜材!!すごい。
裏山で倒れそうになっていた桜を伐採し、5年寝かせたものがいい感じの材になっていたから、思い切って建具屋さんにお願いしたと言っていた。

炉縁というのは、炉の炉壇の上にかける木の枠のことで、11~4月頃まで用いられる道具。無智な私は知らなかったが、桜材の炉縁は使えるシチュエーションが限定されており、炉の時期の、小間(四畳半以下)の茶事でしか使えない。なんともスペシャルな! その貴重な機会が「夜咄(よばなし)」、真冬の夜の茶事。

茶の稽古を始めた頃、当時の師に「あなたもいつか、夜咄の茶事に招かれるくらいまで稽古を積めるといいね」とお声掛け頂いたことを思い出す。

いよいよ時は来たか。
来年2月、お招きを待っています。お稽古がんばります!