蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№513 安心して

ゆめにあふひとのまなじりわたくしがゆめよりほかの何であらうか  紀野 恵
 
 
 
12月17日
米子駅に降り立ったとき、寒くてびっくりした。
やはり山陰の寒さは質が違う。 家に戻り、おみやげを食べる長女とあれこれ話をする。なにごともなく元気に過ごしていたようで安心した。 O先生から頂戴したお茶のクッキー、会計士の先生から頂いた高級ゼリー(せ、千疋屋…)、犬山市で買った「犬クッキー山クッキー」、そして列車のなかでやけ食いするつもりで買ってほとんど食べなかった神戸のサンドイッチ等々。二人とも見事な食べっぷり。若さって素晴らしい。 
 

いつものようにGoogle先生が「文化五年辰年だったな」と昔の写真を見せてくる。
金華山での天下取りと同じ2年前、大阪のリッツカールトンでの写真である。ちなみに、「リッツに行くなら大阪にしろ」といったのはおにいちゃん。
 
ぎゅうぎゅうに人がつまったエグゼクティブ・ラウンジで、クライアントさんとアフタヌーンティーを頂いていた。「お祝い&ご褒美のお泊り会」である。セッションを開始してから、どーん!どーん!と二段階でお給料が上がっていかれた。ここにはかかないけれどほんとにすごい金額だったよ… 毎週朝早く、泣きながらダルシャナした甲斐があったね。ほんとによかった。 

しかもこの日、衝撃の告白を聞いて、先生は顎が外れそうになった。もう時効だから書いちゃうけれど、子孫繁栄の報告。先生は大人だから「順序が逆ではありませんか?!」なんてヤボなことは言わない。今はなかなか子供ができなくてご相談を受けることも多いので「でかした!」というべきところ。

おにいちゃんは「大阪のリッツに行くなら、必ずバーに行け!」と言っていたけれど、こんな事情だから無理。でもいつかリベンジで行ってみたい。誰か一緒に行って!

あの頃、彼女のお腹のなかにいたうんとちいさな子は、毎日やんちゃをしてはその様子がFacebookを賑わせている。実に微笑ましい。時々ふと思い立っては絵本を送る。親戚のおばちゃんのような気分。他人とは思えないから。
 
 
現代短歌にハマっている私に、JK剣士は冷ややかである。 紀貫之の方が良い、と古文の先生のようなことを言う。君の担任の熱血教師は、現代文の先生じゃないか!先生とふたりでタッグを組んで、現代短歌の魅力について語って聞かせたい。が、確かにこの分野は古典に敵わない気もする。 

ということで、帰宅してから「古今和歌集」を読みだした。これがもう止まらん。 やっぱり小町はいいねぇ、素敵な恋をしていたんだなとか、好きになっても切ない哀しいって昔から同じかぁなどと、とにかく古くて新しいのである。そしてやっぱりこの本も、付箋、折り曲げ、マーカー、鉛筆で書き込みと、いつものようになりつつある。 

いくつか私情を交えながらご紹介しよう。
 
心をぞわりなきものと思ひぬる見るものからや恋しかるべき   深養父 
清少納言のおじいちゃん、すごい。「逢っているにもかかわらず、恋しいなどということがあってもいいのだろうか」と男性が言ってくれるなんて。きっとモテただろうなあ。
 
石上(いそのかみ)ふるの中道なかなかに見ずは恋しと思はましやは  貫之 
JK剣士イチオシの紀貫之。「なまじ逢わなければ、こんなに恋しいとは思わなかっただろうに」 さすが!どうしますか、後朝の文でこんなの来たら。もう夢中になるしかないでしょう。平安男子の恋愛偏差値には言語の抽象化能力が重要だったのね。

数日前から有川浩の小説「図書館戦争」熱が再燃している。ご存じない方に説明しよう。この作品はフィクションだが、作品世界が自衛隊に酷似しており、私にとって青春の妄想が香るのである。主人公(女子)の大事な存在”堂上教官”なる人物は、ツンデレの振る舞いで読者(女子)の心をわしづかみ。ああ、彼さえいなければこんなにもこの本にハマることはなかったのに…、という切ない気持ちを表しているような歌である。ちょっと違いますかね?  


さて、「誰も読んでない」想定で書き連ねているこのブログだが、「少しずつ読者が増えてるね!」とO先生が言って下さった。そうなの?!うれしい~。 しかもなんと、とっても若い読者がいてくれるのである。嬉しいことに時々感想を聞かせてくれる。 この前の記事は良かった、と「ブサイクだと思って生きてきた」ネタについて言及があり、安心したー、と言われちゃったのである。 

そんなに私は自信満々に見えるのかな。それは外側からはそう見えるというだけです。こっそりこれを読んでくれている方のなかに「ほんとは繊細なんだよね、私はわかってるよ」と思ってくれている人がいてくれることを願う。ブラフマン、お願い。 

陰陽論では、天地に水が力強く溢れ、まともに見つめる事ができない強烈な太陽という双方の質を、私は持っていると言う。どんな説にも一分の理ありと思うと、私も暑苦しいばかりじゃない。烈火と水だったら消えて静かになるじゃん。ねえ。
 

この「あなたにもコンプレックスがあったと聞いて安心した」と言って下さった方は、実に素敵な子なのである。小さいときから当たり前のように芸の修行を積んで、自然にその空気のなかで育ってきている。伝統的に芸事の修行は「数え六歳の六月六日から」始めるとされているのだが、この現代社会でそれを地でいっている。ということは、5歳、場合によっては4歳から稽古を始めているということ。息をするように芸が身に沁み入り、不自然ではない振る舞いが薫り立つように現れる。いいなあ、と思ってしまう。私も若い頃からずっと、こんなひとに憧れていた。
 
 
でも、ヨーガをお教えしていても思うのだが「当たり前にできることは評価対象外」なのである。だから皆、いつも不足を感じている。 出来て当たり前のことの先を、いつも人は希求し続ける。だからこそ新しい世界を見たいと思い、実際に現実が変容することも起こり得る。でも、新しい世界を見るには、あなたが今の自分を大切に受け容れて評価することが大事。それがいつも書いている「知足 Santosha」の教え。
 
だから彼女には、ご自身に掛ける言葉を変えて欲しいなと思う。「私は、まだ私の身に備わっていない新しい何かを見たい。それが今の自分には、コンプレックスとして感じられるだけなんだ」と。
 
 
知人に、誰もまだ見ない世界を造り出そうと懸命に生きている方がいる。 私はこの方をとても尊敬している。私もまた、今のようでないヨーガの活用が普及することや、より質の高い健康を人が目指す世界になって欲しいと思っているから。未知の世界を切り拓こうとするとき、孤独を感じるだろう。また、物質的ではないリアルな世界を感じ続けなくてはならない。 

ヨーガを行じることを体操と思っている人はまだまだ多く、いつまでも私はこの誤解から解放されることはないだろうと思うけれど、ほんとうは何のためにヨーガを行じているかというと、目に見えて触れることのできる世界ではない“ほんとうのリアル”を見たいからだ。夢のなかで、目でないもので”見る”世界で見聞きしたものを真のリアルとして、肉体の眼を開けながら見ている夢からは醒めながら生きたいと思う。

「三祖信心銘」が私は大好きだが、ほんの僅かずつこの教えが理解できつつあることを感じる。 例えば2年前まで、私は現実世界がすごく怖かった。足が竦んで身動きが取れないと感じることばかりだった。でも今は怖くない。

この世で多くのひとがお金のことで悩み、お金のことで死んでいく。 私もかつてなんどもお金のことで苦しんで死のうと思ったし、冬の海に足を踏み入れる程度のことなら何度かやった。ただその先に歩を進める勇気はなくて、その水の冷たさに慄いて逃げ帰った。幸いだったというべきか、それともまだその時でないだけだったのか。
その後希死念慮が消えた理由は「肉体は死ねたように一瞬思えても、パラレルで振出しに戻る」ことになったらやりきれない、と思ったからだ。
 
鈴木俊隆師やステファン・ボディアンが書いているように、生きることの恐怖から逃れられなければお金の恐怖からも逃げることができない。たぶんこのことは、人間関係や健康といった他の人間の悩みに関しても同じだろうと思う。 

ただこの恐怖から逃れるために、自分のシャドウと向き合うことは最低限やらねばならない作業だ。そうしないと、恐怖がほんとうはどこからやってきているものなのかが見えてこないからだ。だから私はヨーガだけでは不十分で、明確にシャドウという言葉をとり上げるILPと共にヨーガを教えたいと思っている。
 
今、「現実」と呼ばれるこのMaya/迷妄の世界で生きて、私はここで存分に夢を遊ぶ。 誰かと共に夢を遊ぶこととしての、愛を感じる。現世を去ったひとにもう会えないと泣き、大事なひとの病に胸を傷める。今すぐあの人の腕に触れたい、先生の笑顔が見たい、子供たちが愛おしい、と思う。そしてただあるがままに任せようと思う。感覚や思考さえ嫌わずに。
 
「信心銘」は、感覚や思考を完全に受け容れることは真の悟りと同じと教える。
すべてはひとつ、一つはすべて。
 
だから今、あなたの心のなかに浮かぶ考えがあなたを狂おしく駆り立てるとしても、それこそが絶対的な真理なのだから現実の世界で安心して苦しむとよい。 今、自分が醜いとしか思えなくて心が悶えても、その心の痛みを十分に見つめればよい。だいじょうぶだから。
 
 
私たちはみな死ぬことを怖れているが、すべてはひとつである世界でこの身が死んだからといってどこに行くというのだろう?
私は信じているのだ、死ぬということの先に在るもの、苦痛というものの先に在るものを。お金では絶対に買えないものを。
 
今ここでこうして雪を見ながら、私は常にあなたと共にいて決してわかれることがない。 かつて一度たりともわたしたちはわかれたことがなかった。そしてこれからもわかれることがない。安心して飛び込んでしまえばよい。

それでも私はあなたのところへこの幻のからだの足を運ぶ。そして幻の愛おしい体をハグして言葉を交わす。Mayaでもあるたったひとつのものに安心して身を委ねていることの証として。 

あなたが求めてやまない世界を私に見せて。 この同じ夢のなかで一緒に泣き、笑っていたいから。それこそがほんとうのリアルだから。