蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№503 怖くても、逃げずに

肌の内に白鳥を飼うこの人は押さえられしかしおりおり羽ぶく  佐々木幸綱

 

  

12月8日
出発前、長女から、出張中の安否確認にブログは最適であると言われた。
なので、出張中に更新がされないと「いったいどうしたのか?!」と心配するという。大変なプレッシャーである。
娘たちは、親の想像以上に忙しいのでLINEを読んでくれなかったりする。これではコミュニケーションというより、見守りシステムのようである。お母さんの方が見守られている。ありがとう。


一昨日は朝からセッション、お昼はS田さんとランチ。
「ダルシャナして」と言っておられたのに、私の方がダルシャナしてもらった感じ?

本書きたい、こんなこと書いて、ここに着地させたい、という話をしていたら、「うん、まず目次書こうか」と言われた。仰る通り。大変失礼致しました。書きます。

 

 

そういえば先日、鍼灸治療に行った際、玄関先で先生のご主人様に出会いご挨拶をした。年配の紳士がご一緒におられたのだが、その方が私のことを「いったいあの方は何をしている人ですか?」と先生にお尋ねになったという。ヨーガの先生だけど、皆さんが思っておられるようなものではなくて、瞑想などの指導もしている人ですよ、とお伝えくださったらしい。そうするとその方が「ああ、道理で雰囲気のある方だと思いました」と仰られたとのことで、先生が「よかったねえ」と言って下さった。
瞑想の指導をしている雰囲気?

先日、弟分に数カ月ぶりに出会ったとき「圧が強くてドンときて、ちょっと引いた」と言われた。私より一回りくらい体が大きい弟分にそんなことを言われるとは、少々ショックである。
要するに私のエネルギーが強いと皆さん仰るのだが、本人はさっぱり意味がわからない。本来無一物、という気持ちで、目立たないようその場に擬態している。誰の目にもとまらないはず。

 

エネルギーっていったいなんだろうか。
ヨーガでいうところのPrana(プラーナ/生気)と同じものなのに。
近頃は、リアルセッションの際に少し長めのリラクゼーションを行い、その際にレイキをさせて頂いている。3月にマスター・マリコの下で初めてのレイキ体験をし、8月に正式に伝授をして頂いたときより、感覚が強く、鋭くなっているのを感じる。

これまで、ヨーガ療法の倫理規定を厳密に守ってきた。
その範疇から外れたことは一切やらないように、指導をしてきた。しかしここのところ、そのとらわれを手放し、ここから先はレイキであってヨーガ療法ではないとお断りをして、直接触れさせて頂くことを始めている。そうするとお相手の方の微細な感覚がものすごく伝わってくるし、何かを与えつつ同時に補い合っている気がしてくる。
O先生と良くお話する「補寫」の関係が、そこには生じているような。

 

 

あなたのなかのアートマンと、わたしのなかのアートマンの出どころはおなじだから、わたしたちはそもそも同じ命を分け合って生きている。
教師としての私に助けを求めてくれる方は、まるでコンセントが抜けて充電切れを起こしかかったかのような苦しさをもっておられる。でもそれは痛みや悲しさとして感じられており、「苦しさ」とは認識しておられないことが多い。

「今日は如何ですか?」とお尋ねしても、「元気だよ」とか「大丈夫だよ」と仰るのだけれど、だいじょうぶじゃないよ、とお顔やお体が私に言っている。それを読み取ることを「望診」という。アーユルヴェーダでは、これを当然のこととして行っている。

 

言外のものを聴きとって、翻訳してお役に立つようにお伝えしなければならない。それをそのままお伝えすると、それは暴力になる。お顔が疲れておられますね、目に力が入っていませんよ、お体に疲れが漂っていますね、などとは絶対に言わないし、言ってはならない。

 

だからお伺いしたい。
なぜ、今日、あなたはそのようなのか。昨日何があったのか、どうお感じになられたのか。からだのことだけではなく、色んなことが聴きたい。そのために、セッションは可能なかぎり1対1がいい。
もしお話をせずに体操や調気法などの行法だけを学びとりたいのなら、私のような七面倒くさいアプローチをとる人間ではなくて、他のスマートな先生にお繋ぎしたいと思う。

 

 

ちなみに私は、数か月の単位でご指導をさせて頂いている。これは兄弟子から受け継いだ方法で、妊娠週数みたいなものを意味している。最も長くて40週で1サイクル。
最短12週なのだが、実を言うとこれだとまだ安定期に入っていない時期。でも人という存在の安定感はほんとうに様々なので、あとは勝手に大きくなれよー、と安心して思える人もいるし、セッションの間隔を開けても心理的なつながりは保ちつつ、ゆっくり育っていかれる人もいる。ひとそれぞれで良い。

母子間の心理的安定性は、人の心身の発達にこの上なく重要だが、この関係性で安全を感じ得ていない人が実に多い。だからもう一度やり直すつもり、意識的に生まれ直すつもりで、セッションができればいいなと思う。

 

私も、機能不全の母子関係のなかに育った。こういうものには程度の差があるので、はっきり言ってそんなに大したことはない。ダルクにいる方々のレベルではないが、自分にとっては十分に苦しい関係性だった。
だから私は後天的な疑似親子関係のなかで、育ち直しをさせてもらった。幸いなことに複数の優れた師匠に恵まれている。そのことを思うと怖いくらいありがたく、やはりものごとは目に見えないレベルで絡み合い、支え合っているのだなと思える。

 

でも残念ながら、私は無条件で愛された経験が少ない。子供たちやクライエントさんに対してそうありたいとは思っている。バクティ・ヨーガの教える愛の条件とは、「取引しない、くらべない、おそれない」というものだが、いつも愛に対する恐れが自分のなかに在ると思う。

積極的に関与する形で、愛のように見えるものを掴み取りに行っては傷つきながらここまでやってきたが、怖いと思えばすぐに逃げ出す(物理的、心理的に)ことも同時にやってきた。師匠方は「逃げるな」といって手を離さずにいてくれるが、個人的な関係性ではそこを超越し得た感覚がない。

 

恐れのない愛とはどんなものなのだろうか。
バクティはヨーガの最高峰といわれるから、簡単には理解できないのだろうし、努力や修行で理解できるものでもないと思う。
下降の道は、ほんとうに深い。湘南で一度飲んだくれただけでは、やっぱりわからない。単純に、もう少し年を重ねる必要があるのかもしれない。