蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№677 こっちだよー

すべてのいきものにとっての夜も、ヨーギはそのなかで目覚めている。
バガヴァッド・ギーター2-69

 

 

 

 

5月31日
愛するオタクが今日を節目に新しい一歩を踏み出すこととなった。最後にご挨拶に行った、これまでずっといた場所で、長い旅の途中で求めてきた美味しいものを人に配ったという。楽しいことばかりではなかったしつらいこともたくさんだったのに、もう二度と来ないかもしれないところで、もう二度と会いたいとは思わないかもしれないひとたちに美味しいものをさしあげて、きれいにそこから羽ばたいた。素晴らしいなと思った。さすが茶人だな、とも思った。

 


2004年7月に一度翻訳出版された本の改訂版を、今日すべて読み終えた。それはちょうどJK剣士が生まれた頃に出た本で、あの当時の自分を思うと夢のよう。なにを求めて、なにに価値を置いていたかということをふりかえって思い出してみると、バカバカしくてかわいくて、微笑ましくなる。だから2004年の出版時にこんな本を手にとった訳がない。

そのあと1年もせずに想定していたすべてが(それがたとえどんなにバカバカしい夢でも)崩れ去ってしまうなんて思っていなかった。でもその、今の自分からするとサッパリ魅力のない夢たちが潰えてしまったからこそ、数年後にこの本を手にとって、そして今またその改訂版を読み終えた。

初めて読んだとき受け入れがたくて、ひどく抵抗感を覚えた。だからその本は処分してしまっていて手元に残っていない。でもいま改めて触れてみると「わかる」と思えた。「やっぱり」とも思えて、あれやこれやの経典や聖典に書いてあることは要するにそういうことなんだなあ、と(今の私に許される浅い理解で)思った。

この本を書いた人はもう亡くなってしまったそうだけれど、この方がある特異な体験をして人生がすっかり変わってしまった、と思ったとき、バガヴァッド・ギーターを改めて手にとったらスラスラと読めて理解できた、とあとがきにあった。なので私も「もしかして」と欲を出して、手元にある数冊のバガヴァッド・ギーターのなかのお気に入りの二冊をひっぱり出してきて読んでみた。ふんふん、そうだな、これも前よりはしみいるようになってきているような?、と思ったのも単なる妄想だったろうか。


このバガヴァッド・ギーターのなかには当然「ヨーガ」ということばがたくさん使われているのだけれど、このことばの用いられ方がふだんみんなが使っているようではないので、お風呂につかりながらこの本を読んで(水没させることはなかったのでよかった)、「うんうんそうだよ、ヨーガするっていうのはこういうことだから」と考えていた。


2-48 汝がヨーガの境地に到達して
2-50 ヨーガに不動の人は…
5-8 最高の真理を知り、ヨーガに合一した者は…
6-3 彼がヨーガに安住したとき…
6-23 苦悩の緊縛からの解放がヨーガと言われる
6-53 三昧の境地になれば、おまえはヨーガを完成するだろう
9-22 私を信愛するひとは常にヨーガに合一している


と、いうことでヨーガはDoするもんでなく、至るべき状態である。なのでうっかり「昨日ヨーガしてさあ」などというワケにはならない。「えええ!ヨーガできたの?!いいなぁぁぁ」と言われてしまってハナシがややこしくなるかもしれない。

なにしろ「ヨーギ―の心の状態は、無風、静謐の場所で、揺らめくことなく燃え続ける灯明とおなじと言われる(6-19)」のだから。体操だけしたって、なかなかそんなことにはねえ。


でもこの数か月、美味しいものを一緒に食べながら、もしくはzoomでアホな画面を共有してゲラゲラ笑いながら、そして時にマジメに語りながら過ごした愛するオタクとの時間は、今日間違いなく私たちふたりをほんの一瞬、不動のヨーガの境地に連れて行ってくれた気がした。

  

自分に足りないものを数え上げていたあの頃の私、あの頃のオタク。なにかが手に入れば、いまここに「ある」と思いこんでいる「問題」は解決する、と信じてた。ところがどっこいトンデモハップン。オタクはミッドシップツーシータ(いわゆる軽トラ)でなまはげに会いに行っただけ、私はこの2カ月主には東京でフラフラしていただけである。別に苦行も修行もしていない。毎日おいしいものを食べて夜は死んだように眠っていたオタクと、素敵な紳士に「フラフラしとけばいいんだよ」とお墨付きをもらって毎晩ビールを飲んでグダグダしていた私。

ただ、探しものをしなくなっただけ。
あ、いましあわせだ、と思えただけ。

ずいぶん時間がかかったが、今のこれって自由の境地じゃない?とオタクと語り合い、この解放感と愛でみんなを包んじゃいたいね!という合意に至った。

 

愛するオタクのボディは豊満なので、きっとたくさんの人を包み込める。
私も体格はいい方だがなにより声がデカい(と、いつもJK剣士にいじめられている)から、惑う誰かに「おーい、こっちだよー」といえば届くかもしれない。

国営企業で「号令調整」なる”大声で叫ぶ練習”をしたのは、実は魂で世界に向けて叫ぶためだったのかなあ。ヨーガ(の状態は)おもしろいよー、一緒に遊ぼうよー、と叫ぶのか、あなたのその悩みはマーヤー(迷妄)ですよーと叫ぶのか。楽しかったらなんでもいいような気がする。


と、今日はヨーガのはなしばっかりで「ちぇっ!つまんない!」とご立腹の人がおられるかも… いやもう、この三日ほどヨーガヨガヨガ…ってかんじでめずらしく忙しくて、アタマがヨガヨガしちゃって。こんなことじゃフラフラ教徒として恥ずかしい。明日からまたフラフラしてくだらない話します。今日はごめん、許して。