蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№515 無事

 
君の手の甲にほくろがあるでしょうそれは私が飛び込んだ痕  鈴木晴香
 
 
 
12月19日
お茶の稽古納め。
堀之内宗心宗匠の筆による「無事」のお軸。古染付の花器に、蓮の枯葉と南天。今この国を覆う難を転じるように、とのお思いを込めて下さったお師匠様のお心に感じ入る。
本来であれば、「目出度く千秋楽」のお軸が稽古納めのお約束。でも今年はけっして目出度くはなかった。お家元でも同じことを思われていることが、今月の同門誌に記されてあった。
ただ、今こうして稽古を許されている私共は、間違いなく無事だった。
そのことを有難いと思う。

表千家十三代即中斎宗匠がお家元だった時代、日本は戦争のさなかだった。
そのことから比べれば今のことなどまだまだ、と宗匠方は思っておられるかもしれない。その時代時代の茶がある。ただ私たちは、今できることを貫いていくだけ。そんな話も、師匠とさせて頂いた。どんな状態の折にも、じっとここにいて、辞めずに続けていくこと。そのことのかけがえのない価値。
 
 
先生のお心尽くしを感じ取るのが、茶の稽古最大の学びと思う。
それをするために大事なのは、まず知ったかぶりをしないこと。そして「これ、なんだろう?」と思える感性を育てていくこと。
この世界において、歴はいついつまでも浅い。道の先は長く決して終わりがない。先輩方は常に仰られる。「勉強中でございます」と。私もそう在りたい。

先生には絶対に追いつけないのだから、なんだろう?ということも、どうしたらいいんだろう?ということも全部お尋ねするのがよろしいと思う。もしくは「このようにしてみてもよろしいのでしょうか」という問いであれば、「なぜそう思ったか」も含めて、ご馳走である会話が膨らむはず。
お尋ねすべきでないこと、今知らなくても良いことは、先生はそれとなく促して答えをそのまま差し出すようなことはなさらないから、そのときに自分のなかでその問いを抱いたままこの道を歩んでいく心を定めればよい。単に知識がないだけだったら、それを教えてもらって「そうか!」と思っておけばいい。

先生のほんとうのお仕事は、茶にまつわることをお教えになることでなく、茶を通して人を育てるために機を捉えること、そしてそのために相応しいときが訪れるのを待つことであると仰られる。  興味がないこと、お尋ねしないことが一番いけないように思う。 茶の湯の道具はどれをとっても、人格と歴史を持っているのだから。
誰かを好きになるというのは、その人のことをもっと知りたい欲することだから。それと同じ。
 

昨夜、すごく哀しい話を聴いた。
時々こっそり、秘密の相手と飲む。 会が始まる前からはしご酒になることが運命づけられている気合の入った会である。「なにがいい?」とお尋ねがあったので「ビールかワイン」とお答えしたら、「ワイン→ビール→ワインでもいいかな?」と。ええもちろん…ハイかYESよ。結局のところ「ワイン→焼酎(三岳!)→ラム」で撃沈。
最低三軒、もし私にもっと根性があったらその先にもっと目くるめく世界が広がっているのかもしれない。でも毎回三軒目で敗北して途中退場である。解散じゃなくて。次回こそはラストまで。

まあ、そんなことはどうっちゃいいのであるが、この秘密の会のお相手はM社長である。そこで呑みながら聞いたのは、「シャチョ―」と聞くと目が円マーク¥になる人がいるんだよということだった。なにそれ、なにゆえ。
 
いつも寛大な方々に美味しいものをご馳走になっているので、私ももしかして目がそんなことになったりしてはいないだろうか。怖くなった。うっかり飲んだくれて、ご馳走してくださった方に対する、私にできうる範囲でのささやかなお礼もできていないことがあったのではないだろうか。とても心配である。
 
お金に関して随分嫌な思いをして生きてきたので(そういう思いをしてない人はこの世にほとんどいないと思うが)、それを基準に話を進められるのは大嫌いである。 
以前は今よりもっとバカだったので、相手がそういう話を振ってきていることが見極められないことがあった。まあ振り返ればよい勉強である。

私が茶の師を敬愛する理由の一つは、モノを値札で見ないこと。
先日も稽古のあとそんな話になった。

今日のお床に飾ってあった花器は、先述した通り実にどっしりとした古染付。牡丹にも負けないであろう格を有している。それが宗心宗匠のお軸に実に調和しており、今日この瞬間このしつらえしかなかった、といういつも感じる安心感を覚えた。
「実に素晴らしい染付ですね」とお声掛けすると、「古染付だからね、立派でしょう。いいでしょう」と。なんと、近所の古道具屋で新聞紙に包まれてあったのを求めてきたと仰られる。

この古道具屋さん、それはそれは残念な道具屋さんなのである。
茶の嗜みがまったく無いらしく、物を見る目を持っておられないのに古道具屋さんをしている。ああガッカリ。先生はときどきこのお店にハンティングに行かれるのだが、時々すごい出物がある。私も破格の値段で老松の茶器を求めさせて頂いたことがある。

で、この古染付。なんと3500円。
さんぜんごひゃくえん? 
あと0がひとつ多くても、いや二つでもこれなら全然驚かない。もうほんとにビックリした。お道具屋さん、お茶勉強しようよ…。
新聞紙にくるまれたその花器を、先生は自転車のかごにごろんと転がしてスイスイと帰ってこられたという。
 
先生のお宅の設えは「はあ?!」と叫んでしまうくらいの価格のものと、「ええ?!」と叫んでしまうチープな価格の道具が混在しているのである。なぜなら先生は値段などでものを見ておらず“そのもの”をただ見て、茶室という空間のなかでの調和という視点で道具を取り合わせ、そこに集う方の喜びだけを考えておられるからだ。残念な古道具屋さんと違って、ほんものの目利きなのである。

さまざまな展示会のご案内が豪華なパンフレットと共に稽古場にやって来るが、それをよく見て「どれが欲しいか考えてごらん」と先生は仰る。そこで空想のショッピングを皆で行う(たまには空想で終わらないこともある)。私はこれがいい、だってどっしりした茶碗が好きだからとか。宝尽くしの文様が大好きだからとか。これで80万なら安いじゃない?買いだわ!、とか(妄想で)。

とことん好みでいいのである。自分のお好みを明確に持つよう努めることは、先生のような目利きになるための第一歩かもしれない。だって先生のキメ台詞は「それは好かんなあ」だから。好かんかったら引き下がるしかないのである。
でももし好きだったら? 

答えはひとつ。のぼせて飛びこむだけ。あとから請求書が来て肝が冷えても。
のぼせんとなんもできん、というのも先生の名台詞。強く同意する。
 

マーク・トウェインの「王子と乞食」というお話がある。似たような話は日本昔ばなしにだってある。
要するに、人は誰かのことをアピアランスとか肩書とかでばかり見ようとする。
この場合の見た目は、道具でいうところの値札と同義であると思われる。 

見た目は大事だと思う。人間は粗雑体以上の存在だから、微細体のみならず、そして場合によっては元因体からもエネルギーが発揮されていることがあるので(これは心素と我執の浄化が行われていないと、顕在化しないエネルギーだと、ヨーガでは考えている)、そういう目に見えないものを感じ取るために重要であるという意味合いで、そのままの誰かに会うこと、直接会うことは大事。 

M社長が聴かせてくれた話に戻る。 損する、得する、という観点で見る人の無意識の目付きを、M社長も他のどんな社長さんも見分けてしまえるのだと思う。そんな光を目の中に見たとき、どんな悲しい思いをなさるのだろうか。そんなことには慣れているなどと言って欲しくない。そんな目で私を見るんじゃないよ、と言ってやってほしいけれど、たぶん¥マークはその人の心の奥底の恐怖に根差していて、無意識に現れるものなんだろう。 

O先生といつも話す。私たちは生きてきた範疇が狭く、実業のことなどをまったく知らないから、出会う人たちの「対社会的」な凄さが申し訳ないが理解できない。それはほんとうはとてもとても失礼なことなのかもしれない。
ただ私たちは、茶の師匠と同じようにその方々を「たったひとりの価値ある存在」として見ている。人として好きかどうか、魅かれるかどうか、敬える存在であるかどうかをハラで感じ取っている。その上で、なにかを一緒にさせてもらいたいなあと思ったり、思わなかったりする。その人に惚れてのぼせるかどうかを、ハラで決めていると思う。それは実にシンプルなことで、これからもその目と、それを感じるハラの健やかさを養っていきたいと思うし、同時にそれらが曇ることのないようにと思う。
 
 
迎合したり、お金に魂を売ったりしたくない。
「チーズはどこに消えた」という本のパロディで「バターはどこに溶けた」という秀逸な本がある。
猫が住む森にバターが落ちていた。嬉しくて毎日ぺろぺろ舐めていたら、当然の話だがじきになくなってしまうのだけれど、無くなったらなくなったでそれはいい。どこかにバターを探しに行ったりするのは面倒だからやらないよ、という猫たちが登場する。

「もっとバターが欲しい!」と悩んだりすることもなく、ただペロペロ舐めてお腹いっぱいになったら昼寝して、翌朝起きたときにそれを全部誰かが持っていってしまったとしても「いったい誰があ?!」とも思わず、あ、無いわ、と思ってまたただ寝るだけ。ただそれだけ。だって猫だから。
狐がやってきて「バターを売ってカネを儲けたら、いつでも買えるよ、もっと買えるよ」などと、ああだこうだアドバイスしても全然興味がない。だって猫は猫だから。
すごくいい話だと思った。
 

あるがままでいいと思う。
ただし、あるがままで生きるのは過酷だ。ブラフマンは容赦のない親方だから。
状況をコントロールして、私に耐えうるバージョンでお願い!と思ってしまう。それができると思いたくなる。苦しみたくないとも思う。
でもそんなことはできない。できるように一瞬見えることがあるかもしれないけれど、それはたまたまだと思う。 

今、私も苦しみたくないと思って及び腰になっていることがある。でもあるがままで生きるということは、絶対者ブラフマンの采配を信頼して完全に身を委ねること。これまでとのギャップに戸惑いを感じても、向かい合っていくしかない。他の選択肢は一切ないから。
ただそこで、「苦しくないもん!」と強がる必要もない。苦しいことの対極に歓びがある。苦しみを味わうことで、対極のまだ知らなかった歓びに触れることができる。そこに大きな振幅が生じて心身は翻弄されるが、それでいいと思う。じきにそれが当たり前になっていく。そう信じている。
 
生きるということは振幅を止めることではなく、このダイナミクスを十全に味わうこと。だから苦しい私も確かにいることを認め、それを味わうことそのものが、これまで知らなかった歓びを甘受することに繋がっていくと確信していたい。相殺されて平穏なハッピーが訪れるわけじゃない。波は以前より大きく荒れ、海はより深く大きくなる。だからこそ凪ぎの海の素晴らしさもわかるし、荒れた海がのちにもたらす恩恵もわかるようになる。多くを含み、豊かになるのだ。
 
芸の世界も同じように、こんなに大変なのになぜこれを遊びというのかと思うときがある。余談だが、ここ数か月、筝で稽古してきた宮城道雄作曲「比良」にいったんお許しが出た。完成ではないが、同じ曲をこんどは三絃で勉強し、改めて箏に戻ることで芸を磨くことにした。
決して終わりがない何処かへ私を引き摺るように誘っていくこの芸の世界も、この身を擲ってでもやり遂げたいと思う仕事も、いつもいつも私を責め苛むけれど、それでもずっとこの世界で生きたいと思うし、こんな世界をたまらなく美しいと思う。
 
誰かの、そのひとにしかない何かを見通していけるような、そんな生き方がしたい。表面的なものや、物質的ななにかに目が眩むような関係性では嫌だと思う。
この世の持つ残酷な一面を見知っているM社長の対社会的なすごさを、全然わかっていなくて申し訳ないと思う。でももちろん、あなたが社長であってもなくても私はあなたが大好きだから、これからもまた二人ではしご酒をしようね。