蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№499 おそれを超えて

ためらひもなく花季(はなどき)となる黄薔薇何を怖れつつ吾は生き来し  松田さえこ

 

 

寒い。
大山が冠雪している。そろそろ初雪が降ってもおかしくない。
山~雪、とくるとスキーである。スキー、とくるとゲレンデ。ということで突然、広瀬香美が聴きたくなった。

「冬の女王」だという彼女の歌は、スキー場で盛んに流れていた記憶がある。1993年「ロマンスの神様」、1995年の「ゲレンデがとけるほど恋したい」を改めて聴いてみると、自らの結婚願望にまっしぐらで男性を狙う?潔さが小気味よい。そんな時代だったんだな。「私の未来はあなただけのものよ」ということであったが、いったい今頃どうなっているのであろうか。少々心配である。
私も女同志でひたすら滑るためにスキーに行くんじゃなくて、ゲレンデが溶けて翌朝アイスバーンになっちゃうような恋をゲレンデでしてみたかったな。

ちなみに1996年になると、古内東子の「誰より好きなのに」が大音響で飛騨の山々に響き渡っていた。こちらは打って変わってしんみり来る。「やさしくされると切なくなる 冷たくされると泣きたくなる」と言われながら、冬の雪山でリフトに乗っているのは実に切ないものがあった。誰より好きな彼に、この気持ちを気付いてもらえたのだろうか。こちらも心配である。

 

 

人間は自分が経験してきたことや、所属している社会、そして時代に視野や視点を制限されていて、真に自由なものの見方はできないと言われる。

ご存じのとおり私は、航空法の関係もあり敷地だけは広いが、内実は怖いくらい狭い世界で長いこと過ごしたため、経験の種類や質が大幅に偏っている。さまざまな場面でそのことに気付かされ、その都度「へー」と感心しては「心を広く持つぞ!」と意識を新たにしているのだが、先日セツコさんに盲点を突かれた。

 

民間の世界と、特別職国家公務員の世界とは全く違うし、そもそもその世界に入るまでの生きてきた過程も違うので、価値観や倫理観も違って当然なのだが、私の頭の底の底ではどうやら「不倫は死をもって贖われる大罪」なのである。
で、それをセツコさんに改められた。「先生、民間ではそんなのフツーだから」って。


ここでも一度書いたことがあるが、私はかつて後輩を自死で亡くしている。
退職後のことだったが、先輩から連絡がきたときには信じられなくて絶句した。誰よりも軽やかに、そつなく生きているような人だったから。

賢くて、仕事のできる子だった。砂に水が沁み込むように仕事を覚え、器用に応用してみせ、阿吽の呼吸で仕事ができた。一緒にミッドシップ・ツーシータ(ただの軽トラ)の荷台に航空機部品を載せ、基地内を走り回った。
親御さんもご兄弟も同じ仕事で、部内の新聞に家族そろっての写真が載った。
ということは、家族ぐるみで、この世界の価値観に絡め取られていたということでもある。

花形の部署に栄転し、業務上、出入り企業とのやり取りも盛んに行っていたと思う。魅力的な子だったから何の不思議もないが、出入り業者の女性と関係を持った。それが人の耳に入ってしまったあと、ある場所で、車に排ガスを引き込んで死んだ。

 

部内での不倫も悲惨である。WAF(Woman Air Force 女性自衛官を示す略称)との不倫が発覚した幹部が施設内で首を吊ったこともあった。
狭い世界には独特の倫理観があり、人はそれを軽々と飛び越えることは、できない。
 

不倫以外にもいくつもの悲惨な事例と、今の私の立ち位置ならば些細に思える過失で、命こそ落とさなかったが社会的な生命が断たれた人もいる。
自分が病んだことでしばらくその世界から身を離し、Yogaやウィルバーに触れて戻っていったとき、その空気感の異質さに愕然とした。病んでいるのは私だったのか、それとも。私はあの場所から去ることを自分で望んだということになっているが、実のところ、新しい感覚を持ちながらあの場所に居続けることが許されなかったのだと思う。排除されたかのように。

 

 

だから私は、あの場所の狭い価値観から解き放たれたと思ってきた。ところがどっこい、セツコさんとの他愛のない話のなかで、自分のなかに過去の残滓がこびり付いていることに気付かされたのだった。心素のなかの、汚れのような残存印象。

 

道理で、新版ILPを読んでいた時に統合的倫理で引っかかりを感じたはずだ。旧版に触れたときは退職からさほど時間も経っていなかったし、狭い範囲をぐるぐる回っているだけだったのだから、価値観にも変化が生まれようがない。だからそこにフックはかからなかった。

 

今、10年経って、私の生きる世界は一変している。

周囲には鮮やかな生き方を貫いている魅力的な女性がたくさんいて、私に世界の多様さを教えてくれる。たつのさんのような方も「夫とはセックスできないって!」などという過激な発言を明快に発し、閉経期以降の女性に、どんどん恋人を作って枯れることなく生きろ!と言ってくれている。

今、規夫師匠の手による2つ目のILPを紐解きながら、以前はまったく意識されなかった領域が、新たな世界が生まれ出でるように私の目に飛び込んでくることを感じている。

 

 

閉経を迎える45歳前後の女性は、この世では存在しない者として扱われているように思える。こんなふうに感じて憤っているのは、私だけではないようだ。全く同じ文言を、英のジャーナリストが上梓した、女性の性的な側面の充実を願う本で目にした。

 

不倫しても殺されはしないから、安心して恋人を作れと言いたいわけではない。
ただ、今はそれも”アリ”だと思っている。
自分の人生を諦めずに、自ら主体性を持って生きてと言いたい。それが難しいことは十分わかっている。かつての私のように「いのちをとられる」ような恐怖を感じる人もいるのかもしれないが、それでもあえてそう言っておきたい。

実のところ、私が日々相談を受けるような心身の悩みの多くは、素敵な恋人ができれば吹っ飛んでしまうのではないかと思うのだ。いや、“吹っ飛ばされる”といった方がいいかな。

 

 

ちなみに、先に記した英女性ジャーナリストとはリン・エンライト、書籍は「これからのヴァギナの話をしよう」(ISBN-13 : 978-4309249728 出版社 : 河出書房新社 2020/9/28)

女性の外性器全体には「ヴァルヴァ」という名称がある。膣のことをヴァギナというが、この言葉は皆が知っているだろう。男性にとって意味のある部分にしか明確に名前が与えられてこなかった、とエンライトは言う。

女性は社会的に去勢され、男性のための道具として扱われてきた側面があることは否定できない。そのものの名前を明確に言うことを避けるより以前に、この名称を知らない女性があまりにも多いのだから。
名づけられていないものは、存在しないのと同じなのである。

 

現在の社会制度のなかで愛を育むことの難しさをE・フロムも語っているが、それでもこの世界で私たちは生きていかなければならないのだから、せめて意識的でありたい。自分のなかに在る恐怖に気付かずに、怯えて生きたくない。
そして、誰かを愛した結果として、命を喪うようなことには絶対になって欲しくない。

 


あの後輩のそばにいることができたならば「自衛隊は辞めてもいい、でも絶対死ぬな」と、言った。高校時代からの付き合いの嫁に蹴られても、親に殴られてもいいから、死んでほしくなかった。

恋をして、昔よりいい男になったよと、言ってやりたかった。