蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№367 そんなに焦らずに

アルジュナよ。我は太陽の如くに熱を放ち雨を溜めて放ち、我は生であり死でもあり、真実在のものであり非実在のものでもある。」 バガヴァッド・ギーターⅨ-19

 

 

ロンドン大学の研究によると、携帯端末で常にメールやメッセージを送受信していると知能指数が平均10ポイント低下(女性だと5ポイント、男性では15ポイント低下)するという。女性の方がポイント低めなのは、家事活動で常にマルチタスクを求められているからかもしれない。

 

世界中の働き手は、長年にわたってマルチタスクをこなすよう求められてきた。
その結果生じるのは、激しい慢性疲労である。

皆、1日のほとんどの時間を座って過ごしているにもかかわらずクタクタに疲れており、「だるい」という感覚に苦しんでいる。

 

では逆に、超多忙な毎日を鮮やかに生き抜き、多方面で活躍している人はどんなやりかたをしているのだろうか?

 

シングルタスクに徹底的にこだわり、一度に一つのことにしか取り組まず、なおかつその活動に全力で集中するよう努めているという。

 

 

さて昨日は、月に三度の稽古日(お茶)だった。
もうずいぶんと長いこと稽古をさせてもらっているが、自分自身の点前における初心の頃との差を自覚できるようになった。

何が違うかと言うと、以前は動作を流して行っていた。
いや、流して行うことしかできなかった。(自分では丁寧にやっているつもり)

当時の師匠に「動きが大きすぎるなあ」とご注意を受けたことを今でも覚えている。

「あなたは体が大きい(身長169㎝。先生は150㎝台?)から、そんなにおおきな身ぶりだとビックリして心臓が止まりそうになるわ~」とにこやかに仰られた。
所作が雑だということを暗に教えて下さっていたわけだが、この言葉の真意を理解し実際の行為に落とし込めるようになるのに、約20年という時間がかかった。


では今はどうかと言うと、一歩を進める、立つ、座る、礼をする、物を移動させる、という動作において、常に今行っていることそのものに心が留まっており、次のことを考えながら何かをするということがない


これまでの年月の中でただ点前の稽古をしてきただけでなく、日々を生きる中で、泣き、笑い、思うように稽古ができなかった悔しい期間も含んだ結果として生まれ出たものだと思っている。稽古以外のことでも、どれだけ師匠にお助け頂いたことか。


ということを書くと「そんな時間はかけられんわ!」と思われる方もあるだろうが、茶道も筝曲も人を急いで育てる気はまったくなく「ある日突然驚くほど伸びる瞬間が来ることを確信し、どっしり腰を据えて待つ」スタイルの教育法なので、これでいいのである。


人生の中になにかひとつ、「成長が早いことは善でも正しくもないし、道は長いのだから焦る必要はまったくない」ということを腹の底から確信している活動を確保しておくことは想像以上にだいじなことだと考えている。
こういった活動が、仕事などを底支えしてくれるのではないだろうか。。


いつも救われる師の言葉「まあ、気いせらんと(焦っても仕様がないのよ)」は名言である。
それでも、茶会や講習会などここぞという場面では大いに負荷を掛けられ鍛えられる瞬間があることも、ここに申し添えておく。

 

ちなみに、私が指導者として活動するとき胸に留めている師の名言。
「先生の仕事とは待つことである。待てなければ弟子を潰す。」

 

さて、ヨーガはもっとわかりやすく「今に集中する方法」を教えてくれているので、次回はそれについて。