蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№501 やらずにおれない

あひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり  藤原敦忠

 

 

12月6日
今月も上京。
本日は午後から鎌倉に出向き、インテグラル理論中級講座のオフ会「インテグラルビーチワイン会」に参加。いや、乱入?

別名「湘南の海を見ながらインテグラル理論を語り合い、ワイン片手にみんなで堕ちていく会 」ということで、実にアヤしい。上昇ばかり追い求めていては不健全、ならば下降の道でエロスにまみれてみようってことかな。
ダンスが堪能なOさんもいらっしゃるから、ひとつここは踊りで愛を語る方法についてご指南を受けてみるのもアリかもしれない。

規夫師匠とご一緒にお酒を飲むのは、10月の駒込焼肉の会以来。
本日はご相談申し上げたいことがあるのだが、酒の勢いを借りてでないとこっぱずかしくて言えない気がする。お酒を飲んでも言えないかもしれない。まあその場合は「時未だ来たらず」と思って発酵を待つしかない。

 

今月もまた故人宅(おにいちゃんち)に滞在して、奥さんと色々話をしようと思う。
来週、とうとう四十九日が来る。仏教の考え方だとこの日を越すと人は仏さまになってしまうということなので、もうここいら辺りにいるということもなく、どこかで誰かや何かに生まれ変わったり、天上でのんびりしたりするのだろうか。挨拶回りは無事終わったのかな。

先日、久々にマタニティのプライベート・レッスンを行ったのだが、この子もいつか誰かのなかに入っていたアートマンであったものが、紆余曲折を経てここにやってきて、なんのご縁か私の声を聞いたりしていると思うと不思議な気持ちになった。

ところでこのレッスンの際、リラクゼーション時にレイキをさせて頂いたのだが、「エネルギーワークはやっている方も気持ちよくなる」ということを初めて体験させてもらった。
ハッと気付くと自分の意識も飛んでいる。O先生との間で「コーザル領域に行った」ということになっているあの感じ(寝てるんじゃないよ)。妊婦さんと赤ちゃんのエネルギー凄し。約2週間後のレッスンでもこの感覚を一緒に味わいたいので、お願いだから急いで生まれず、予定日を待ってほしい。

1月3日予定日のこの子は、K山さんちの4人目のお孫さん。これまでに生まれた3人もみんなマタニティ・ヨーガを一緒にやったから、なんだか他人のように思えない。

 

 

さて、最近ずーっと座っている。
バランスボールとか安い折りたたみ椅子とか、正坐とか、はたまた蹲踞とか。
なぜかというと、ずーっと文章を書いているからである。

寛大なお心で継続的にこのブログを読んで下さっている方は、「最近やたら長いな」と思っておいでなのではないかと思う。そうなんです、長くなってるんです。ごめんなさい。

このブログは、第一には規夫師匠との約束により「世界に向かって叫ぶ」ため、次には加藤先生のゼミナールで促されたリフレクション・ジャーナルとして、修行?のために自分に課してきた活動である。なので、その折々に自分で自分を追い立てるため(苦行好きだから)「これやってみるか」という課題がある。

当初は「とにかくやるしかない…」という思い。アップするだけで怖かった。
次第に「誰も読んでないはずだ」という妙な開き直りができて、「なんか文句あるかー」と思って自由に書けるようになった。
昨年の夏頃は「毎日書いてみよう」ということで、短くてもとにかく上げるということをやっていたような気がする。コロナ禍の初夏はYouTubeで政治経済のチャンネルをあれこれ見ていたのだが、そのラインの発達はまったく弱いので言語化に到らず、ほとんどアウトプットできずに家のなかでいじけていた。JK剣士に心配されたくらいである。

その後なんとなく「1000字は書くかな」ということになり、この秋に「1000字をだいたい1時間で書く」という目標設定。先月辺りに「2000字にしてみるか」となった。

2000字以上と思っていても、結局まとまらず3000字くらいになってしまうのだが、自らに課した課題はクリアしているのでOK。ただ推敲にものすごく時間がかかる。明日のために書いたものを推敲しつつ、その翌日のものも仕込む、ということをしていると、本業である指導以外の時間がほぼ全投入になってしまっているのだった。

とは言ってもこれまで通り、二つのお稽古などはちゃんと行っている。
ただ、今はあまり本を読んでおらず、アウトプットの過程で調べ物をする程度になっている。これが、これまでの人生を振り返ると「大逆転」という感じなのである。
なにかにチャレンジしてる感がいっぱい…!

 

 

自分の修行のためとは思いつつ、どこかで万が一読んでくれているかもしれない、死ぬまでに一度も会うことのない何方様かのために、何かを記したいという意思はある。
けっこうマジメなので、毎日生きて起こることに真正面から体当たりし、いつも翻弄されてきりきり舞いしている自分というものを、ここにぶつけている感じもする。

いつでも「今」体験していることに関しては、「これはほんとに凄い、この経験無くして死ねない」と思う反面、やってられっか!という気分になることもしばしばあり、人の心のなかの闘いは常に49対51と河合隼雄さんが言われたように、大きな葛藤が生まれるのだった。
前田夕暮の「一の吾君をえたりとこをどりす二のわれさめて沈みはてたる」という歌に、これほど深く肯んじ得る日が来るとは思ってもみなかった。これは恋の歌というよりも、人の心のリアルな動きを表現した秀歌であると思う。

 

 

昨日は稽古日だったので、朝はお茶、夜は筝曲の勉強をしていた。
しみじみ思うのだが、結局やることは一緒。茶を点て、糸を爪弾くか、撥で押す。それだけ。ずーっとそのことをやり続ける。たぶん死ぬまで。

そうやって変わらずにやり続けることのなかに差が現れるとしたら、自分のなかの意識だけ。自分でAsanaをするときにも、毎日同じことをやっても、毎日少しずつでも深く感じ取れるようになっていきたいし、生徒さんに指導させて頂くときも、あなたの感じ方のセンサーがもっと敏感になって微細なものをリアルに感じ取れるようになって欲しいと思う、ただそれだけ。それだけのことを、ただひたすらやらずにおれない。

 

体験のなかで自らのうちに生まれ出でるものを見つめていくと、苦しいことこの上ない。嬉しい、楽しい、気持ちいい、という閾値が上がれば上がるほど、たぶんわたしのなかの世界が少し広がって、対極のネガティブな感覚も掴めるようになっていく。
私は体験のどこかでNOを突きつけて拒否するのか、それとも苦しみつつそこにい続けることを選ぶのか。その活動の対象と刺し違えるつもりで真剣に相対し対話するのか、それとも快適なふりをしてなんとなくごまかすか。

 

 

演奏して、先生に「いいよ」と言われても自分は良くない。点前も同じ。
いつまでもいつまでも、こんなことでは嫌だと思いながら、先からわずかに差し込んでくる光を見、追いかけているような気がする。それでも、今日のところはこれで自分を許してあげようと思えるところが、病んでいた頃と違う。

 

 

いったい自分はほんとうのところ、なにがしたいのであろうか。
よくわからないが、とりあえず今はもうしばらく、書くという練習を続けてみようと思う。