蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№461 哀しみのレベル

本当の愛は、痛む。本当の愛は、あなたを自分を超えたところへと連れていく。したがって本当の愛は、あなたを打ち砕く。もし愛によって打ち砕かれなかったら、本当の愛を知らないのだ。           K・ウィルバー 「グレース&グリット」


 

大事なひとが逝ってから四日経った。わずか四日。

また来るからね!といってわかれた私に別離の実感はなく、これまでどおり、いつものように「何月何日から何日まで米子。○○(←お気に入りの美味しいお店)予約した。」というメッセージが届くように思うし、また会える気がしてならない。

しかし同時に、こんなに彼や奥さまのことを考え続けているのは、この世に現身をもって彼がもう居はしないことの確かな証左でもある。

生きているからこそ考えずに済む。喪ったからこそ思う。
生きているときよりも、意識して思うようになる、という言葉を与えてくれた人がいる。
それは救いのようであり、地獄のようでもある。

 

 

彼が死を意識していたとは思わないが(なにしろあまりにも突然だった)、2人で話しながら「奥さんには恩がいっぱいだね」とか「足を向けて寝られないよ」とか、「俺になんかあったら頼むぞ」などと冗談交じりに言い合っていた。

それが思わぬ約束となって私に迫ってきたからこそ、彼に、というよりも彼女のために私は東京へ引き返したのだと思うし、彼もそれを求めていたと思う。

今、私などの嘆きよりもはるかに大きな哀しみを抱えて、奥さまはなんとかかろうじて毎日を生きている。
朝晩様子を伺い、なるべく一緒にいられるように来月以降のスケジュールを考える。

でもなにひとつ私にできはしないのだ。
それは病院にいたあの数日間と一緒で、単に私の心を慰める程度の効能しか持たないことに気付きつつも、いったい誰のためなのかと自問しつつやり取りをする。

 

それはそれは広い交友関係を持っていた人で、好奇心も旺盛なのでどんどんそこに新しい登場人物が現れる。面倒見もよかったから、たくさんの人が彼に感謝を覚えているだろう。

関係性が遠いから、めったに会わないからといって、哀しまないわけではないはずだ。
彼とのほんのわずかなやりとりで救われた思いをした人も、きっと何人もいるはずだ。わずか数度の邂逅でも胸を引きちぎられるような思いをしながら、だれにも何も言えない人がいると思うのだ。

 

 

配偶者との死別は、人間が経験するストレスのなかでもっとも大きなインパクトを持つと言われる。これには関係性の質も当然かかわってくるだろうが、このご夫婦に関して言えばデータ通りという気がしてならない。
だからこそ心配で、個人の思いを体しつつ、自らの専門性も駆使してじゅうぶんにお支えするつもりだ。

 

 

哀しみにレベルはあるのか?
私にも彼との思い出がある。亡くした人を悼む気持ちも大きい。
しかし当事者ではないという思いもある。しょせん他人で、奥さんとは哀しみのレベル感が違うという自虐的な想いが拭い去れない。

 

どんなことでもそれを乗り越えるためには、いったんそのものと真正面から向き合うしかない。私もいつか必ず、この哀しみを真正面から見据えて格闘しなければならない。

 

いわゆる「身内」と呼ばれる人よりも、親密で感情的な関係性を私は多く構築している。今この悲しみを乗り越える過程で、「しょせん他人」などと思ってしまう自らの思考の在り方をこそ精査していかねばならないのだろう。また、それを考えよ、と彼に宿題を与えられたのだろう。

生きていればまた必ず、大切な誰かとのわかれを経験する。
今回の自分の振る舞いは十分に過激だったと思うが、それにご家族が応えてくれた。私のその振る舞いを奇異と思わず、情熱と思ってくれる人たちと生きていきたい。

 

こうしてとにかく目の前のことに向かっていけば、いつか誰かがきっと、なにも言わずに私の肩を抱いてくれるだろう。そのとき初めて、哀しみのレベルなどという愚かなことを言わず、ただ自分のなかにあるものを許容してやることができるような気がする。

だから今はただ、在るべきように、と思う。