蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№460 驚きをもって

死の側から照明(てら)せばことにかがやきて
ひたくれなゐの生ならずやも            斎藤史



恩返しというものが可能ならいつか必ずと思ってきたが、それを直接させぬ間に颯爽と次の世へいってしまったひとに、どんな形でなにをお返ししたものかと考えている。

いま、私は落ちついていることができるが、それを決してできないひとがいる。
その方のことをわたしたちはお守りしていかねばならない。そのために私は彼と出会い、こうして関係性を深めてきたのだと思わされる。

ひとの存在や関係性というものは実に不思議で、今、目の前で自分が経験している事象のみをもって判断することは決してできない。
このことをバガヴァッド・ギーターは「二極の対立の克服」という言葉で表現するが、人間の制限のある視力と浅はかな智慧ではなにもわかりはしないという謙虚さをもっていなければ、私たちは苦しみ続けるだけなのだろう。

 

不思議、という言葉を私たちは何気なく使っているが、その言葉のもつ意味を本当に理解はしていないように感じる。


「不審花開く今日の春」という禅語は殊に有名なので、茶を嗜む人ならよくご存じであろうと思う。なぜ今年も春はやってきて、毎年変わらずに花は咲くのだろうか、そのことの驚異をわたしたちは受け取り切らずに毎日流してしまう。


狎れたくない。なにに対しても、どんな活動にも。
毎日当たり前のように使うものに、昨日も弾いた曲に、何年も読み続けている本に。
美しいと思う場所に、好きだと思う音楽に。
そしていつもやりとりをしてくれるひとに、私を案じてくれるあなたに。

あたりまえではない、という気付きをもって毎日を生きることが「知足」の想いへとつながっていく。いつもそうでありたいと思っていたはずなのに、だれかと別れなければ自分の知足の想いが足りてはいなかったことに思い至らない。

満足していること、すべてに新鮮な驚きをもって生きること。
これを自らの肉体をもって日々学んで行ければと思う。

アサナ(ヨーガの体操)に取り組むとき、毎日からだが違っていることに驚かされる。思うように動かないときもある。でも私には、このからだが今この瞬間許されている。まるで自分のもののように使ってよいと与えられている。

からだはものではなく、人がしあわせを感じ取るための土台だと思う。そして、個人的なものではない。ないものねだりをしたり責めたりしないで、ここにこうしてからだをもって「わたし」がいる、という素晴らしさに驚きをもって向かい合いたい。このからだが世界と、そして人と繋がっていくための道具であることも思い出していきたい。
それがアサナというもののある理由だと思う。

いちばんの恋人として、だれよりも愛されたいと思って、あなたの体との関係性を作り上げて欲しい。大事にして、優しく気遣って、目をのぞきこみじっと見つめる。言葉はいらない。

愛してるよと、まず自らの体に言えるからこそ、限りある命を許されてここにいてくれる目の前のひとを、どこまでも深く愛することができるのかもしれない。自らも、目の前のひとも、できうる限り深く愛したい。
ときを重ねるごとに、以前の愛が浅かったと思わされるような、深まりを経験していきたい。