蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№459 充分だよ

立てるかい 君が背負っているものを 君ごと背負うこともできるよ  木下龍也

 

 

今は落ち着いた心持ちでいることができる。
ヨーガを通じインド哲学に触れてきて、この世にあると見えるものの移ろいやすさや儚さを私という存在の中に叩き込まれた。これは言葉によって叩き込まれた。それが少しずつ血肉となっていく過程を、いま生きている。

頭で学んだことを血肉とするには、実際の人生を生きていくしかない。経験が楔となって、過去の古い考えと新しい知識が混ざり合う機会を与えられる。

 

肉体に意味はないが、魂が今生で宿る宮殿として、その住まう処を清浄に調えたいという思いで心身に対する各種行法を行ってきたが、今夏はその宮殿側の重要性を教えてくれる人が立て続けに何人も現れた。

 

誰もに与えられているこの魂の宮殿の個別性、その様子、触れたときの感覚、そこから伝わってくるけっして目に見えないもの、これらもまた確かに、在る、ものであることに目を開かされた。

 

肉体など幻だといいながら、なぜ私はあの人の姿に胸が締め付けられるような気がするのか。ひとが私に触れて、目に見えない氣やエネルギーを与えてくれるとき肉体にはっきりとした感覚が生じる、それをマーヤー(迷妄)だと言われても理性的には否定しないが、確かにそこに在るものとして感じとっているではないか。

 

音楽を聴くときにお腹の中に響き渡るもの。三絃を弾きながら胸に迫りくるもの。
誰かを思って目に感じる熱さ、涙があふれること。掌であなたの肌に触れたときの温かい滑らかな感触。喧噪の中でも迷いなく私の耳に届いてくる愛しいひとの声。
どれも嘘ではない。幻であっても、今確かにここに在る。

生きていく中で制度があり、儀式がある。バカバカしいと思っても、従ってみせなければ前に進めないルールがある。
そこに無自覚に従うのではなく、意識的に参加していたい。バカバカしいと醒めた感覚で演じるように従うこともあろうし、あえてそのバカバカしさを自分の流儀として採用し、意識的な再調教を自分自身に施すこともあってよい。そのとき空虚な儀式が遊びになる。この夢の中でもとことん遊んでいい、むしろ遊ぶといい。

 

この世は迷妄である、という教えの対極にある確かな肉体の温かさ。
双方のバランスをとって私たちは生きる必要がある。

正直いって私はヨーガでこの双方を学びとれなかった。だから今、ヨーガとは関係ない方々が私に、先生のように学びを与えてくれている。

 

素直な生徒でありたい。
今感じている新鮮な驚きと、見えていなかった世界を見ることの喜びを、ダルシャナで鍛えられた言語感覚を用いて表現したい。せっかく肉体を与えられているなら、五感で味わえるものを意識的に味わいたい。ヨーガ教師だから制感を保って溺れることなく、と思ってしまうけれど、たまに逸脱することを恐れなくてもいいのかもしれない。枠組みにとらわれていることをこそ恐れるべきなのかもしれない。

 


今日、あるひとの肉体が火の力をもって五元素に還る。
そのひとはすでにそこにはおらず、この世界のあらゆるところに遍在している。いまここに、私のそばにいる。大事にしていたひとのそばにもいる。好きだった場所にもいる。
その肉体がまだ魂の宮殿であったとき、わたしに多くの感覚の楽しさを教えてくれた。主に味で、そして音で。

 

この先、絶対者ブラフマンになにごとかを祈ろうとするとき、幻だったそのひとの現身を思い出してしまいそうだ。すべて御心のままにと思っていますが、そこにいるならちょっとだけなんとかしてくれないかな? などと。

 

あなたと過ごした12年の歳月は、私と娘二人を大きく変えた。
あなたがいなければ、東京という街をこんなにも慕わしく思っていなかった。もうこの世で会えないことはまだ信じられないけれど、もう少し永く一緒にいたかったなどとはもう言うまい。充分だった、今ここに至ってなんの不足もない。

充分だった。