蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№437 そこに氣があるから

「『君は行為せよ』『君はまさにそれ(=ブラフマン)である』という二つの相矛盾する観念が、同時に、同一の拠り所を持つことが出来るのか、合理的に説明せよ。」

 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 12-4

 

 

突然、長女が「母さんが言ってる、気ってなに?」と訊ねてきた。

てっきり授業(仏教系)で生じた疑問なのかと思ったため、
「インドで言うプラーナ。生命力。レイキもまったく同じもの」
と答えたところ、「え」と絶句された。求めていた解説とは解離していたようである。

その後、JK剣士と「氣」について語り合った。

剣道をしていて「氣」がわかりませんとか、ありえんし。
というのがJK剣士の第一声。実に頼もしい。

先日、三段の審査を受験したのだが、その準備の過程で、推定六段の指導者に受けたご指導のことを語ってくれた(推定、とあるのは、娘が正確な段位を存じ上げないだけ)。

形の試験では、三段は七つの形で受験する。
その三つ目の動作の時、指導者の木刀の切っ先は常に相手の眉間を向いていて、決して外れることがなかったそうだ。

それは、どうにも嫌な心持になる(生命の危険を感じさせられる)ことだそうで、
「こんなことが出来るようになるまでに、いったいどれほどの稽古を積めばよいのか」
呆然とした、と語ってくれた。

先日も段位試験のことについて書いたが、初段から始まる形の試験では木刀を使用し、寸止めを行うのだが、この「寸止め」は相当に難しいはずである。

ちなみに航空自衛隊の一般女子隊員教育課程では剣道1級を受験させていたが、短期的な努力で何とかなるのはそこまでなのだろう。

木刀を安全に操作できる段階というのは、ヨーガで言えばプラティヤハーラ(制感)に当たるのかもしれない。

体操は出来る(ように見える)。しかしそれは狭義の解釈ではヨーガではない。
自我を制御もできていなければ、大いなるなにかと繋がってもいない。
繋がっていなければ、ヨーガは達成されてなどいない。
それはヨーガが難しいんだよと言いたいわけでなくて、あなたが完全なる安心感に導かれなくては、どんな行法も意味がないのだと知って欲しいから。
ヨーガとは大いなるものと繋がり至福を達成すること。
安心で、満たされている、という思いに到れないなら、ヨーガをすることなんてない。
もっと他の方法で楽になって欲しい。

茶を点てるのは誰にでもできる。ヨーガ・アサナも同じく。竹刀だって私にも振れる。
瞑想らしく座って見せることもできる。

そこにある違いとは何なのか。
それは氣が説明してくれるだろう。

氣が込められている点前では、お客様から決して氣は離れない。
場全体を意識しながら主客のやりとりは行われ、なんの取り決めもないのに阿吽の呼吸で調和がもたらされる。
作法とか、点前の歴や技術はそこでは意味を持たない。一体感とともに、この一瞬を共有できた喜びがある。

氣が込められたアサナならば、私の心身と魂が命の原因たるものと一体になり、計り知れない安心感と至福が生まれる。

剣道ならば、心技体がひとつとなり、そのとき身体は丹田から自然に前に進み出るそうだ。
勝ち負けを競いながら、勝ち負けを超越しようとする意志をもって。

ヨーガとは生き方である、と私たちは考えている。
この一瞬、私は自らのなかのアートマンと共にあることを確信しつつ、自らの内外に遍在するブラフマンとも調和することを望む(一度たりとも離れたことがないのに、そういう遊びをしてみる)。

 

氣を言葉で語ることは難しい。決して語れないものでもある。
でもそれは確かにそこにある。そして感じることが出来る。

今、私は確かに、物理的に離れたところにいるあなたの手を握ることができる。
万処に遍在する氣をもって。

目を閉じて感じて欲しい。
気のせいだと思わないで、必ず感じ取れると信じて欲しい。
誰も、いつも一人ではないと気付いて欲しい。