蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№422 陰で支えてくれるもの

「私は不生・不死であり、また不老・不死であり、みずから輝き、一切に遍在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-3

 

 

茶道で用いられる道具に「茶杓」というものがある。
耳かきに例えられることが多い、細長い棒状のもの。
素材は主に竹。
竹や木を細く削ったものなので、当然軽い。

この道具は、お客様から拝見を求められる道具のひとつである。
ちなみに昨日のお稽古で、この“拝見”を含む濃茶点前の稽古を行った。

稽古は疑似茶会なので、茶を点てる役である私(亭主)が、お客様のために道具組を考えました、という形式で行われるロールプレイングゲームだ。

 

お茶を入れておく器(茶器)、茶杓、仕覆(茶器を収める袋)。
通常この三つが、お客様が「それ、触ってみたいわ」と「拝見所望」を申し出る道具になる。

茶器は、どこの焼き物ですか?とか、形はなんですか?というようなお尋ねがある。
仕覆は、なんという織物ですか? 柄は何という名前ですか? というような感じ。

そして茶杓
ここには「銘(なまえ)」をつけるという遊びが加わる。
例えば今日であれば、「表千家9代(9月だから)、了々斎宗匠のお好みものの写し(本物じゃなくてコピー品だよ)、銘を『白菊』(もう満月も過ぎたから“玉兎”には遅いし、まだまだ暑いから“白露”には早い)と申します。」などという、ごっこの問答をする。

 

もしその場におられるどなたかの誕生日だったり、バレンタインデーであったりしたら、粋にそのことを盛り込んだお銘にしてみたりすることもある。(ご誕辰、とか、恋とか?)

茶席の一番のご馳走は何か、ご存じだろうか?
それは「問答」。
すなわち招く側と招かれた側との対話である。

ヨーガを始めたばかりの頃は形ばかりが気になるように、茶も当初自分のやること(所作や点前)ばかりが気になる。全然目の前にいるお客様のことなんて考えていない。自分自分自分、そればっかり。

 

講師のお許しを頂いて「教授者講習」なるものを5年かけて履修したとき、私はこの視点の誤りを徹底的に正された。
私の前にはお客様がいる。
この点前は誰かのためにある。
今点てているお茶は目の前の方が喫される。

 

何をしているときにもお客様の気配を感じ、そして客の側も亭主に気配を伝えようと配慮する。阿吽の呼吸で物事があるべきように進むとき、身体に電気が走るように痺れるのだ。たぶんお互いに。

 

茶席の会話はルールにのっとって行われる非常に抑制的なものだけれど、だからこそ主客が思い思われる気持ちが伝わる。
すべてあなたのためにこの場を設えました。
すべてを私のために設えて下さったことを、私は気付き、感激しています。

それを互いに確認するのが問答というやり取り。

茶を学ぶことで、言葉で感激を伝えるのが少しはうまくなったように思う。
照れてモジモジしていたら何も伝わらないからだ。
この出会いはもう二度とないかもしれないのに。


もう一度、茶杓の話に戻ると、この道具の扱いについて此度重要な教えを頂いた。
とても軽いこの茶杓を扱う際、「重力を感じ、任せるように」と。
そうでなければ、脆い茶碗だとかけてしまうのよ、と。


私の仕事の先に誰がいるのか。
誰のための、どんな仕事をしようとしているのか。

力任せでなく、そこにあるものを何か別の根本的な力に委ねるような仕事ができるだろうか。

目の前の方に満足して頂ける味を、生み出せるだろうか?

 

このところ、ヨーガという表向き(陽)の仕事と、趣味の位置づけにある茶道(陰)の統合が、自分のなかで始まってきているのを感じる。
私の仕事はこの遊び無くして存在しないと思う。
わざわざレッスンの時に言ったりはしないが、茶そのものやお師匠様方に対する感謝を込めて、ここに書き留めておきたい。