蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№470 悲しさと肺

雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ  飯田有子

  


先週から、蕁麻疹が出たり、皮膚にできた小さな傷が治らず化膿しかかったりして困っている。「そのケガ、どうしたの?」と見咎めて気にかけて下さる方もあった。
子供じゃあるまいしよう…と恥ずかしく思っていたのだが、本日鍼灸治療に伺った際、なぜそんな症状が出ているのかを先生がそっと、優しく教えて下さった。

 

皮膚は肺に対応している(表裏の関係にある)。
肺は、悲しみという感情に対応している。
あなたの肺は弱っている、悲しみがこもっている。
嘆き尽くすまではこんな症状が出るんだよ、出てもいいんだよ、と。

 

思えば今日で2週間。たったの2週間。
この間、どれだけ自分がお兄ちゃんと仲良しだったか、改めてしみじみとわかってきた。今になって気付かされたことが、また胸に迫る。


そして私は結局のところほとんど泣いていない。先月末に外苑前のヒロさんのころに伺った時に泣いてしまうかもしれないと思ったが、3年ぶりにお会いした洋平先生が元気だったのが嬉しくて泣かずに済んだ。

その時、規夫師匠と洋平先生に申し上げたのは、大事なひとのために私はできることはしたいと思ったし、きっとそうする、ということだった。先生方はお二人とも(現時点では)独身だから、もしかするとひとりぼっちでおつらいめに遭うことがあるかもしれないが、私は飛んで行きますから!と申し上げたところ、規夫師匠はいつものとおりうんうんと頷きながら微笑んでくださったし、洋平先生は「オランダにも来てください!」と仰った。うん、もちろんだよ、先生! オランダに行けるお金とパスポートは準備しておくから!

でもそれよりも、先生。「べつに壺井に来てもらわなくても大丈夫だから」といえるくらいの恋人を(ことによると複数)備えておいてください。それが私は一番安心します。そこのところ、なんとしてもお願いします。それで、単数でも複数でも準備出来たら教えて下さい。「なにかあっても壺井は来なくていいからね」と。そして情報は常にアップデートしてください。

 

30歳くらいの頃、ある試験を受けに福岡に行った。受験中の休日に行った博多のキャナルシティで、心迷う私(当時)は占い師の前に座って手を差し出していた。「あなたは情が深いから、男とやっちゃダメ」と言われた。いったいどういうことなのか、みんなそんなワイルドな世界に生きているのか? 

それはそれとして、私は情が深いのかなとは思う。「こんなことは先生に初めて話します」という打ち明け話をされることも多い。ひとの心にスッと入っていくから、嫉妬されるだろうと言われたこともある(いくつかこころあたりがある)。

親しいひとの苦しみに、心がもっていかれる。実際に痛む。心臓の辺りが押さえつけられるように苦しくなる。だからといって聴きたくないわけではない。聴きたい、聴かせて欲しい。でもなにもできない。それが苦しい。

教えて欲しい。私はこの世にいることで、いったい誰の、何の役に立っているのか。



今日、ヨーガの先輩方で、心を同じくする方と話した。
ヨーガ療法(ラージャ・ヨーガ)は難しい。自分だってなにもわかっていない。食物鞘(肉体)のこともまるでわかっちゃいないのに、わかったふりをして生徒さんに向かい合っているだけなのかもしれない。きっと自分は、今生でヨーガの秘密なんてわかりはしない。だから来世以降に期待するしかないよね。
それなのに、なにかカリキュラムを作って指導者を養成なんてしても、そんなの無理だよ。ヨーガの指導者はもがき苦しむことでしか育たない。スマートな研修で養成なんてできないんだよ。
そんなことを話した。これは指導者みなが感じる慟哭。感じねばならない慟哭。

 

この指導に、果たして意味はあるのか? 価値は生めているのか?
あなたの「ありがとう」の言葉に頷く自分。それを信じられない自分。
自分の内臓も、私の心の働きに必死に応えてくれている。私は今、大事な修行をしている。

早く元気になれとは、言わないで欲しい。