蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№455 愛すること

人間のいのちのちからに圧倒されつつ、数日間を寄り添わせてもらった。来週また必ず会えると信じ、それを確信しうる現象に触れ、いったん辞去して今は神戸に来ている。

コロナ関連の助成金を使って作られたという、ビルの屋上のオープンスペースでレッスンを行った。今日のレッスンが、このスペースの記念すべき初のイベントだという。
肌寒く、途中から小雨も降りだした。簡易の屋根はあるが雨は吹き込んでくる。
三宮近くのビルの屋上だが、ヒマラヤ感と苦行感たっぷり。
この劣悪な環境のなかでも、皆まったりとリラックスし心身の変化を感じ取った。ヨーガとは実にすごいではないか。手前味噌ながら。


先日来、人の関係性というものについて考え続けている。
家族は盤石のようでありながら決してそうではなく、意識的で豊かな関係性の構築は実に難しい。

 

20代の頃から親しんできた谷川俊太郎の詩集がある。
三番目の妻である佐野洋子の挿画で上梓された「女に」。これを初めて手に取ったとき私はまだ19歳。生きるということについて何も知らないこどもだった(今でもまだなにもわかってはいないけれど)。

これまで折に触れて紐解いてきた本ではあるけれど、先週ふと思い立って丁寧に再読したところ、むかしとは違ったように読めるような気がした。そんな自分になれている気がした。
これが成熟ということだろうか。10年後に、もっと違うように読める自分になれているだろうか。

 

三回結婚した谷川が、三人目の妻への愛を語る。

言葉を巧みにあやつる谷川の語る妻への愛は、ふたりの愛し合う人間のあいだに起こるドラマを抽象的に表現するがゆえに、その抑制された表現がよりリアルに生身の愛を感じさせて、言葉に触れるわたしの胸を熱くさせる。

制度内における自分の安寧を計算することなく、恋をしたことのある女性がどれくらいいるのだろう。この世で生きることは簡単なことではないから、結婚という制度も用いながら人を愛し、子を育まねばならない。そこで失われるものがあるとすれば、それはどんなことだろうか。

先日、規夫師匠との対話の中で、心身共に愛される感覚を持てていない人は心の奥底に言いしれない寂しさや虚しさ、そして怒りを抱え持っていることがあり、それが無意識のうちに周囲の他者に対する意地の悪さとして表現されてしまっているのではないか、という話題が出た。

愛されなくてもいいと思っている人はいないだろうが、愛するためには自分のなかに人に対する愛を内包できていなければならない。
私がしあわせになりたいと思う以上にあなたをしあわせにするために、私はいったいなにができるのか。

目の前の人に対する愛のために、潜水艦が短信音 ”Ping” を発信する(ピンを打つ)ように、本当のことを聴かせてくれと訊ねることができるだろうか。尋ねることで自分のなかの弱さや恐れが露わになり、惨めな思いをする可能性があるとしても、それでもいいから目の前の人を大切にしたいと思えるだろうか。

ヨーガの世界観の中では、「我執」というものが真実の我を覆い隠しているという思想がある。目の前の他者を通じて、私でもあり同時に他者でもある真実の我を確かに愛する行動の手前に、我執を弱めるという取り組みが必要なのだろうと思う。

私たちが取り組むヨーガという行法が、自らを自らの手によって癒し、さらに人をも愛するという行動に繋がっていけばよいと思う。また、そうでなければ、ヨーガの存在する意味がないとも思う。


「未生」  

あなたがまだこの世にいなかったころ
わたしもまだこの世にいなかったけれど
私たちはいっしょに嗅いだ
曇り空を稲妻が走ったときの空気の匂いを
そして知ったのだ
いつか突然私たちの出会う日がくると
この世の何の変哲もない街角で

谷川俊太郎 詩集「女に」より)

 

愛するということ

愛するということ