蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№454 家族の難しさ

ここにきて4日目になった。初めは悲観的だったので、これはとても嬉しいこと。
奥さんには我儘を言うが、妹には素直なので言いなりになっている。
「手を握っていい?」と訊ねると、にっこりして「うんうん」と頷いている。内心はどうなのかわからないが、普段どおりのサービス精神だ。
大人が手を握るって、本当にないこと。ハグはしても手は握らない。でもとてもよいことだと思う。素晴らしく力のあるなにかが、強く伝わるのを感じる。
元気がないとき、誰しも、誰かに手を握って貰えるといい。


さて、昨日、ある方にご質問を受けた。
「親というものは、子供が自分の窮状を親に相談しなかった場合、怒るものなのか?」

それは親による。成人発達理論を最近流行りのへんてこりんな理解で採用しているひとでなければ、状態をはじめとするあれこれを加味した上で考えることになるだろう。

私自身の(今の)理解では、子供は親のことなどそんなに考えていないし、そうあって然るべき。だから親には言えない・言いたくないことがたくさんあって、親に言えないことを聴いてくれる交友関係をどれだけ持っているかが重要になると思う。

なので私の養育方針は、たくさんの大人と出会う手助けをし、その中で子供自身が関係性を構築できるよう促すこと、そしてその中から「親には言えない、言いたくないこと」を開示できる人を見出すことができるようにということ。我が子に関して言うと、これは間違いなく助けになっていると思う。

親は子供について「自分が一番分かっている」というようなことを思い込んでいることが往々にしてあるので、これが厄介である。私自身、結婚にまつわる事象の多くはこういった親の考えに対する避けがたい対処であったように感じている。

 

“Perspective taking”という言葉があり、「こう思ってるだろうな」と想像することができることを示す。賢いひとならやっていることだが、実は単に自分の想像でしかないことを見失ってしまいがちだ。
その逆は“Perspective seeking”、「どう思っているか」を直接聞くことができること。腹を割って話す、とか。これは出来ない人、そしてできない関係性にある人がたくさんいる。

親って“Perspective taking”しかやってくれてないと感じてきた人が大半なんじゃないだろうか? 「子供にとって何が一番いいかは私がわかっている」とかいう幻想を振りかざして、感情的になって文字通り暴れたりする。そんな様子を見ていたら、子供はもう口を噤むしかなくなってしまう。そんな子供をずっと自分の内に抱えてながら大人になったひとが、たくさんいる。

20代の頃に姉に聞いたNASAの話が、今も心に残っている。
日本初の女性宇宙飛行士、向井千秋さんの夫・万起男さんが書いたエッセイの中で紹介されているエピソードで、シャトルの発射を家族が見守る待機室は、配偶者と両親と別々になっているという話。万が一の事故が起き、目の前で愛する人が危険にさらされたときの反応がまるで違うからだそうである。

配偶者は絶句して凍り付く。親は「オーマイガッ!」と叫んで大騒ぎし、配偶者にも色々言ってしまうので(想像するに「あなたが宇宙飛行士になるのを止めなかったから、うちの息子がこんな目に遭ってしまったじゃないの、なんて悪い嫁なの!」的なことを言うのではと。)部屋をわけて配偶者を守っているという。

 

まだ結婚の経験もないうちからこのエピソードを知ってしまったので、子供に対する親としての自分の態度みたいなことも多少冷静に考えられたと同時に、配偶者というものの結びつきを過度に美化してしまった嫌いがあるかもしれない。若気の至りとはこのことか。

シャトルの搭乗員や航空機のパイロットの家族は、常に事故のことを想定しながら生きておられると思う。空自時代に耳にしたのは、フライト前に夫婦喧嘩は絶対にしないということ。喧嘩したままなにかがあったら、間違いなく後悔するから。

なので、地上で安全に仕事をしている我々も、日々いつか必ずこの世を去ることをつねに想起しながら配偶者への愛情を育み、なにかがあったときに凍り付いて何も言えなくなるような関係性を構築するのがいいのか。それとも制度上の夫婦関係を時折精査して「相手が亡くなったとき、言葉を失って凍り付くと思えるか?」という質問にYES!と答えられなかったら、結婚制度から愛や恋の要素は抜いて考えてみましょうとか?
まあお好きな方でどうぞ。

ということで、親子関係は(そして夫婦関係も)想像を絶するほど難しい。
健康を促進したいと思い、その為の支援を提供する私たちは、この点を十分に認識しておく必要がある。これは何度言っても、言い尽くせない。