蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№639 時間の不思議

寒天の闇わたりきてすれ違うたましひの芯光り合うまで  竹山広

 

 

 

4月22日
アサイチで柔道整復のセンセイ(Raja Yogaの大先輩)のところへ伺う。月に数度のメンテナンスだが行けば何かしら見つかる。今回は首がヘンだったのでひさびさにグキっと直された。このままひと月置くのは不安なので、来週もういちど施術を受けてから上京することに。

東京を出てから1週間が経つが、心優しいというか豪気な女子二人がお声がけ下さったので、明日は朝晩それぞれ別の方とデートの予定。おひるまには門脇師匠のところへFさんをお連れする。初CAFFE VITAなので洗脳、もとい布教活動である。いや、どっちもヤバいか。夜はM社長とワイン×参鶏湯。土曜の朝にはぷりっぷりのお肌になっているはずなのだが、オンラインセッションでもしかしてもしかすると「あれ、センセイ?いつにもましておきれいですね?」みたいなことには…ならないだろうかね。


さてさて昨日のことについて。
昨日は米子のナンチャッテ高島屋に出向いてきた。富山にアトリエを構えておられる須山昇華先生の茶陶展が3年ぶりに開催され、初日の昨日は先生にご挨拶に上がってきた。
お変わりなくお健やかな姿を拝し安心した。昨年大切な方をお亡くしになったのは私とおなじなので、こころよりお悔やみを申し上げた。高島屋が先生の単独の展示会を企画した最初のときから、お茶の師匠をはじめとして社中の多くの方が須山先生の作品の虜になった。

女性作家さんらしい柔らかく美しい作品には、金やプラチナが素材としてふんだんに用いられた繊細な美しさ。初めての展示会以来、波をモチーフにした作品が私のお気に入りで、この度も「月」そして「波と光」と題されたお茶碗でこれまでとは違った風情の波の姿を描いて見せてくださった。「どうぞお手にとって」と寛大なお声掛けを賜ったので遠慮なく手にとらせて頂き、掌で茶碗を包み込んで対話をするような気持ちで拝見した。

3年前と違うのは、マスターマリコのお蔭様で「氣」を感じられるようになったことだよね。エラそうな表現かもしれないが、先生の作品と掌を通じてお話させて頂いたような気持ちになった。お茶碗はしっかり手に包み込んで用いるお道具。こうして掌に抱いてみなければわからないことがたくさんあるような気がする。先生直々のご説明も頂き、実に贅沢な時間を過ごさせて頂いた。

他にはこの季節に合わせてか、桜をモチーフにした作品が多く出品されていた。枝垂れ桜を描いた建水と棗、澄みわたる青空のような青い地に桜花の舞う香合など魅力的な作品ばかり。
感染症対策のため、先生は初日から2日間しかおいでになれないとのことだったが、今週末には愛するオタク(お茶仲間)と一緒にもういちどこれらの作品を愛でに上がろうと思っている。

いやー、今こんな感じでぜんぜんお稽古ができてないけど(私がたびたび上京しているから鳥取ではビョウゲンキンみたいな者なので)、お茶を勉強してきてほんとによかったな。狂うほど好きな道具をお作りになる若い先生と、同じ時代を生きられてしあわせだなあ。好みの道具に出会えてうれしい。好きなお道具で大好きなひとに、お茶を差し上げられたらいい。こんなご時世だけど、その”とき”を心待ちにしてる。



ところで先日某所である方に「腕時計しないの?」とのお尋ねがあった。その方に時間を伺った直後のこと。その際には「あー確かに。ほんまやなあ」と思ったので、私の愛用の腕時計は文字盤が真っ赤なので、その日着ていた青い服には合わないからと申し上げたのだが… あとからつらつら考えるに最近ぜんぜん腕時計をしてない。更に言うと目覚まし時計もまずもって使わない。なんでやろなーと思っていたら、昨晩の洋平センセイとの読書会で「時間の概念変わってくるよね」とのお話があり「それやー!」と思った。

私はなにも自分が第二層(*インテグラル理論用語)にあるんちゃうか、などという大それた話をしているわけではありません。ただここ数年、時間との向き合い方がすっかり変わってしまっている。

先程の腕時計問題に関して言うと、はめるのは岡山駅でやくもに乗りかえるときくらい。レッスンをしていても時計はほとんど見ない。「だいたい今これくらいやろ」と思うとだいたいそうだから。朝も勝手に目が覚めるし「お、もう出かけなあかんのやない?」と思ったらちょうどいい頃合いだったりするから。こういうのをハラ時計っていうのであろうか。

時間って伸び縮みするでしょ?
これは瞑想をやっている方には肚落ちする感覚よね?

大好きな方とご一緒する時間は永遠。ほんとに。
昨日も須山先生を貸切にして語った時間は永遠のように長かったけど、たぶん誰にも迷惑かけてないし、計測できる時間的にはそんなに経ってなかった。今この一瞬こそが永遠で、あなたとわたしは二人で永遠に生きられる。そこにたぶん時計は必要なくて、うっかり時間を過ごしてしまったとしてそれもまたも絶対者のいたずらで、きっと必要なことだったんだと思える。

そもそも時間ってないらしいじゃないですか。私たちが思い込んでる過去~現在~未来っていう一方向に向かって流れる時間なんてないらしいよ。それは妄想なんだ。
二年前に母がなくなったときそんな本を読んでいた。母が逝ったと聞いた瞬間、過去に遡ってなにかが間違いなく浄化された。そしてまだ出会って何年にもならない方との関係性にも、今だけでないなにかがあるような気がしたりする。

私は今ここでこうしていながら、すべての時間を生きている。でも私がしあわせになるのは今この瞬間しかない。そして今この瞬間、私はあなたのことを疑いなく愛していて、とてもしあわせだ。今この瞬間しあわせだということは、たぶん未来永劫私たちはしあわせだろう。なぜなら私がそうするとこころに決めているから。

なにがあっても、あなたのことを大事に慈しむと決めているから。
いつどこにいても、どんなときにも。

 

  

 

時間は存在しない

時間は存在しない