蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№394 ほんものに触れる

「九 私は常に見を本性とし、常住であるから、私が見たり見なかったりすることが、どうしてありえようか。それゆえに、それとは異なる理解は認められない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 第12章


数日間の上京を終え、昨日帰宅した。
品川駅を久々に利用したところ、駅構内のお土産売り場に「ぎんざ空也 空いろ」というお店ができていた。

お菓子にご興味のない方にはさっぱりその価値がわからないだろうが、銀座にある空也さんは“もなか”で有名なお店で、夏目漱石の小説にも登場する名店である。

鳥取県では空也さんをご存じない方も多いのだが、我が師匠はさすが京都まで毎月お稽古に上がられていた方で、各地の銘菓を弟子たちに賞味させて下さる。
お菓子も道具も、優れたものが先生のもとに集まってくる。
とても不思議である。
到来ものの来歴を伺うにつれ、ものにも確かにいのちがあると思わされる。
人よりも長いそのいのちを、心地よいところでしあわせに送ろうとして、ものも集まってくるように思える。

価値あるものを、価値があると認められることは芸を学ぶ上でもとても重要なことで、食籠の蓋を開けた瞬間にそのお菓子を見るだけでご亭主のお心配りをひしひしと感じるためには、世で美味しいと言われているものに対する知識が必要となる。

ものごとに対する目を養うためには、本物に触れていなければならない。

どんな師の下で学ばせて頂くかによって、この学びに大きな差が生じる。
当然、美術館などに足を運んで本物を見ることもするけれども、ガラス越しに見ることと、手にし、さらにそれで茶を頂くこととは天と地ほども差がある。

私の師のお一人である鈴木さんは音楽を聴くことを通じてこの感性を養っておられると伺っているが、茶の湯の世界で実際の道具を扱って「味」というかたちないものを生み出す行為を通じて私のなかの重要な“なにか”は養われてきたと思い、茶席という場とほんものの道具を与えて下さったお師匠様方に深い感謝を感じている。

茶道講師としての資格は私も有しているが、ほんものの道具を時季に相応しく調え、そのための空間を設えるということが私にはできない。
それでも何かできることがないかしらと、最近とみに考えるようになった。
茶箱を調えて、旅先に運んで行ってみようか。


さて、本家・空也さんのお菓子は予約なしにはなかなか手に入らないものなので、新しいブランドである空いろのお菓子を有難く購入させて頂き、帰宅したその足で先生へお届けした。

こんな世の中の風潮を受けて、東京から戻った私はしばらく先生にお会いすることを自粛させて頂くことになる。
切ないことだが、これもまた長い芸の道の学びのひとつと思うことにしよう。

http://sorairo-kuya.jp/index.html