蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№421 甘えていいから

「私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下もあらゆる方角にも充満する無限者であり、不生であり、自分自身に安住している。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 10-2

  

あなたには憧れの存在がいるだろうか?

人の心には影が生まれる。
誰かに怒りを覚えたり、不満を感じたりする時、私の中の影が蠢く。
だからその怒りや不満を、自分に引き戻す作業を行う必要がある。

自分のなかにある直視できないものを人のなかに映し出してしまう「投影」という仕組みについては、きちんと知識を持っていたほうがよい。

影は自分のなかの醜い側面だけを露わにするとは限らない。
「黄金のシャドウ Golden Shadow」と呼ばれるものもある。

素晴らしいと思う人、自分には到底かなわないと思う存在に対して憧れを抱き、崇拝するような気持ちを持つことは誰しもあると思う。
でも、あなたはなぜそれをそんなにも評価し、強く心動かされるのか?

もしかすると、あなたはその憧れの人と同じものを我が身のうちに持ちながら、それを正当に評価も活用もしていない可能性がある。

自分のなかの醜いものと対峙することも苦しい作業だが、反対に優れた点を客観的に受け容れていくこともまた難しい。
客観視を行っているつもりでも、自分のことを割り引いて判断してしまう。
しかしよく考えれば、今持っているものを正当に評価できなければ、その先の変化も変容も起き得ない。


生徒さんを前にして、あなたのどんなところがどのように素晴らしいかをじっと見つめていく。往々にして人は自分の良さというものを当然のように考えていて、特に貴重なものだとも考えていない節があるので、そこを言語化して差し出していく。
以前からそこにあった宝物を、一緒に、改めて見ていく作業はとても楽しい。
そんな素敵なものがご自身の中にあったと気づいたとき、その方が花開くように変わっていく。それもまた素晴らしい。

指導というのは、太陽のようになされなければならないと思っている。
これは育てて下さった師匠方に与えられた教えであり、言葉でなく師の在り様によって教えられた。
私が十分に師の愛情を受け取れるようになったとき、初めて本当の意味での稽古が始まったように感じる。

依存は大事である。
畏れつつも甘えたく、そして甘えて受け容れられる、その経験を通じて人は安心して成長していかれるのだと思う。
以前、私は師の愛情を受け取ることができなかった。
何かを上手にこなすことによって評価して欲しかった。
でもあるとき、ただここにいるだけで許されるという感覚を知った。親との関係性に葛藤を持ちながら生きてきた私は、本当の意味で甘える経験を持たなかったと思うが、師匠との疑似的な親子関係の中で癒されたのだと思う。

愛されることに条件は要らない。
愛することにも理由はなくてよい。
師との関係以外にも、この感覚を拡げていくことができるだろうか。