「熟眠状態においては、認識以外のなにものも存在しないので、認識主体の認識は永遠である、と言われているからである。しかし覚醒状態における認識は無明に基くものである。それゆえに認識対象は実在しない、と考えられるべきである。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-8
感情に名前をつけるのをやめてみたらどうだろうか。
自分のなかに蠢く大きな力を、エネルギーそのものとして認識できないとき、私たちは安易にそれを人に投影したり、レッテルを貼ってわかった気になったりする。
でもそれは、ただのエネルギーだ。
ヨーガを実習してきた過程は、単にボディの実践に耽溺したわけでなく、同時にボディを軽視したわけでもない。ヴェーダ聖典等を繰り返し読むことによって養われたものも多い。
特に影響を受けたのは「バガヴァッド・ギーター」だが、智慧と実践を行き来しながらの道のりは実に豊かだったと思う。
「クリシュナ神は今の私になにをせよと言われるのか?」との問いは、師匠の言葉によるものだけれども、このことについて考えることで、自分のなかに宗教性が養われたと感じている。
先月、ある方から「自殺についてどう考えるか?」という問いを頂いた。
美しい木々を望む、静かなカフェでのことだった。
その方にはそんな問いを発する理由があり、そして問われた私にも、問われるだけの理由があると感じる。
そこでは私自身の公式な答えと、非公式で内的な思いをお伝えするだけだったが、この対話にはまだ先があると思うし、あらねばならない。
答えの無い問いに対して、それを胸に抱えつつ生き抜いていくためには方便が要る。
宗教の役割とは、その方便を提供することにあると思う。
そしてできれば、方便を超えて、生き続けるための力をそこから得たい。
自分自身のこの生には、確かに理由があるのだと確信したい。
その確信が、他の誰かの確信と矛盾していてもまったく構わない。
より正しい確信を探し続けるのではなく、自分の信じるところを心の赴くままに信じ抜く強さが欲しい。
座右の銘というものをひとつ挙げるとすれば、道元禅師の「切に思うことは必ず遂ぐるなり」という言葉になる。
私たちはみな、自分がこうだと思う道を歩むことができる。
誰かがあなたの「切に願うこと」を無理だと言ったり、馬鹿だと笑うことがあっても、自分自身の臓腑のなかから慟哭の様に迸りでた願いを殺すべきでない。
なぜその思いが顕れでたのかは一生理解できないかもしれないが、それでもその思いとともに生きていくことが、私たち一人ひとりの真の仕事なのではないかと思う。