蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№149 まずは耳を澄ますことから

一所懸命やっていれば壁にぶつかる、というのをよく聞く。
自分自身も今、壁にぶつかっている。

複雑な壁なので、簡単に「これについての」壁であるとはいいきるのは難しいが、ある側面から見ると、「ヨーガ指導に関する壁」と言える。

現在、インテグラル理論に関するゼミナールを受講しているので、改めて様々な事に思いを巡らせてみているのだが、そこで考えたのは、「何を良しとして指導するかについての壁」にぶつかっているのではないかということ。

で、ヨーガをやるとなにがいいわけ?
という問いに対して、ある一側面だけを過大に評価していたのかもしれない。

人に発達段階があるのなら、何を良しとしてヨーガに取り組むかも、一人ひとりに許されていいはずなのに、私はここ2年ほどの間にすっかりグリーンの病理に侵されていたらしく、「こうするのが一番いい!」という偏った視点に固着していたようなのだ。

大忙しの一か月の間に、自分のヨーガをどうやっていくのかと考えたところ、結局体操に落ち着いた。寝不足で混沌とした心のまま座るよりも、短時間のアサナに集中することで非常に救われ、皆さん、この感覚を求めておられるんだな、と純粋に理解した。

この10年間のほぼすべてを、ヨーガを専門として、他の学びも行いつつ贅沢な日々を過ごしてきたことを改めて思い、ちょっと雲の上にでも住んでいるような感覚の乖離があったこと。これが壁のすべてではなくとも、大きな割合を占めているように感じている。

同時に、自分がぶつかっている壁をあまりにも単純に捉えすぎ、何か一つを何とかすれば、すべてが氷解するようにうまくいく瞬間を夢想していたのかもしれない。
なんとおめでたいことだろうか。

ちょうどオンライン・ゼミナールの補助教材を視聴していたところなのだが、「発達は善なるもの」という勘違いをしてきたことが、この壁を招いたのだとも思う。

この先、どのような指導をおこなっていくのか、そもそも指導ってなんなのか。
自ずと花開かせるように支援するために、私の教師としての仕事は何なのか。
もう一度考え直さないといけない。

「啐啄同時」という言葉が大好きだったはずなのに、私がしようとしていたことは、まだ時が来ていない卵の殻をつつき割り、雛を殺すにも等しい行為。

内側から殻を叩く音を聴きとれるのか。耳を澄ますことがまずは仕事。
その微かな音が聴こえるように、周囲を静かにして自分の感度を上げておくことも大事。