蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№309 しあわせを探さない

幸せってなんですか?
自信をもって定義を答えられる人は、どれくらいいるだろうか?
ヨーガの思想では幸せに定義がある。すなわち「理由があってはならない」。
 
「〇〇だからシアワセ!」
だというのなら、その〇〇がないと私は不幸です、という宣言になる。
 
例えば「孫が元気に生まれたから幸せ」だというのなら、孫が生まれる前のおばあちゃんは不幸だったということか。どこかに障がいのある子だったら、おばあちゃんは不幸だということか。その人の考える”幸せ“要件を満たせていない孫は、おばあちゃんを不幸にする存在なのか。不幸なおばあちゃんのもとに、幸福にしてあげるという重い役目を背負って生まれてきたのか。
 
どれもヘンでしょ?
 
人間のちいさな心で条件付けをしたら、不幸にまっしぐらである。 何らかのとりくみを活用して、「観ている存在」と「観られているモノ・ヒト」をちゃんとわけて考えられる・感じられるようになることが大切だ。
ヨーガもそのためのもの。
体操だけ上手になって、心が解放されない人をヨギーニなんて呼べない。
 
私は誰なのかを見失うと、幸福ということの取り違えが起こる。 幸せには本来理由がないことに気付いた時、毎回の呼吸は至福の行為になるだろう。 それに気付くことが(たとえ常時ではなくとも)、悟りということなのでは。
 
生きる上で困難だと思っていることを、この一瞬だけ脇において、「今この瞬間の呼吸が出来ていることは間違いない」という事実に向き合ってみる。もし誰かに鼻と口を塞がれたら、そんなに長くは生きておられないだろう。「お願いだから助けて!なんでもしますから!」と言ってしまうだろうと思う。
 
それでは今すぐ、なんでもします!の心で、「生きてるだけですごい」と思うことに決めてみたらどうか。
幸せも生きることも、楽なことではなく、実に多彩なのだから、今が幸せでなくてなんなのか!という凄味をもって生きてみようと、今ここで決めてはどうだろう。
 
哀しいことや苦しいことのない世界を求めることは、この世界がなくなればいいと思うことと同じ。
サーンキヤ哲学では、プルシャとプラクリティという二つの原理がこの世を作っていると考える。日本だと陰陽と言えばイメージしやすいだろう。
 
陰のない陽、プラクリティがないプルシャ、どちらも存在できない。 「この世など、私など、無くなってしまえ!」という呪いの言葉を吐いてしまっているのと同じことが、どちらか一方を選びたいという心から生まれてくる。
 
ここは神聖な場所だから、どちらかひとつを選ばないで。
リラックスしていてください。