蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№425 存分に遊ぶ

「全く不二にして無垢な知識があるとき、偉大な精神の持ち主は、憂いも混迷ももたない。憂いも混迷ももたないときには、行為することも、生まれることもない。これがヴェーダ聖典に精通している者の確信である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 11-12 

 

 

ヨーガの先生になる道は色々あるようだが、私は「ヨーガ療法士養成講座前期」という課程を10カ月間履修してまずはヨーガ教師になった。毎月の課題提出(ヨーガの智慧を元に自ら内省をする)、中間試験、最終試験、そして論文提出が必要だった。

その課程では4冊の課題図書が指定されており、そのなかの一冊である、スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師による「ラージャ・ヨーガ」を今も時々読み返す。

でも、それを受け止める感覚は変化していっている。

…………………

ヨーギは、つねに実践をしなければなりません。
ひとりで暮らすようにつとめるべきです。
さまざまの種類の人々と暮すと、気が散ります。
たくさん話してはいけません。
あまり働くと心が散漫になります。
一日中はげしくはたらいたあとには、心を制御することはできません。

人はこのおきてを守れば、ヨーギになれます。

ヨーガの力は実に大きいので、たとえそれのごくわずかでもおこなえば、莫大な恩恵を受けます。
それは誰も傷つけることはせず、誰もが恩恵をうけるでしょう。

第一に、それは神経の興奮をしずめ、おちつきを得させ、われわれがもっとはっきりとみることができるようにするでしょう。
気質がよくなり、健康状態もよくなるでしょう。

健康は、最初の徴候のひとつです。
そして声も美しくなります。声の欠点が変わります。

これは、やってくるさまざまの効果の、最初のものの一つです。
厳格に実践する人々は、他のさまざまなしるしを見るでしょう。

 

人が集中をはじめると、一本の針がおちる音が、頭脳をつらぬく雷電のように感じられます。
器官が精妙になると、知覚も精妙になるのです。

すべての議論、およびその他の気をちらす行為をすてなさい。
それはただ心の平衡をうしなわせてそれをかきみだすだけです。
もっと精妙な世界のものがさとられなければなりません。
すべてのむなしいおしゃべりはやめなさい。

真珠貝のようでありなさい。

一つの思想に狂気することのできる人、彼のみが光を見ます。

…………………

「それは誰も傷つけることはせず、誰もが恩恵をうける」

ヨーガの先生として、教えを守りなるべく生活をシンプルにするように努めてきた(いい先生になりたかったのだ)。そこから大きな恩恵を受けることができた。
でも同時に、ある種の脆弱さを抱えてしまったようにも思う。

世界は私に様々な経験を強いてくる。
この静かな守られた生活が、あるとき激しいノックの音とともに中断されて、1人の生活の中で感じていた至福の感覚を、世界のなかで豊かに体験しておいでと放り出される。

自分のなかに常に住まう何か偉大なものに対する愛情と、確かに愛されているという感覚を、一人の人間を通じて体験することが可能だと知った。一者と他者の愛は循環していて、どちらか片方では完全でないということがわかった。
教え教えられるという関係は、その完全性を目指している。

バクティと呼ばれる、信じることを通じて解放に至る道の意味するところも、はじめて理解できたようにも思う。

ヨーガの考えるライフサイクルというものがあって、人生の終わりに林住期というものに入る。すべての現世的なものを捨てて、森に入って修行をする時期。

わたしはまだそんな年齢ではないのに、教わった知識を真に受けて「林住期ごっこ」をしていたのかもしれない。それに待ったがかかった。

生きるということのダイナミクスから逃避しないように、そこでもっと多くの経験をして存分に遊んでおいでと、私の中で絶対者ブラフマンが囁いている。
怖れずに、と。