蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№405 解放をめざしている

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者である、から統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 8-3


先週、ある方に、8カ月ぶりにお目にかかることができた。
今年に入ってから大きな手術をふたつご経験なさった方である。

数年前に心臓周辺の病気に見舞われ、手術を視野に入れて治療中であったものの、主治医との関係性に大きな葛藤と不安を抱えておられた。

いつもここで書いている通り、クラスでただ体操だけをしても一時的な慰安しか得られないので、クラスの冒頭では必ず、今、もっとも心にかかっていることについてお尋ねする。

ヴェーダーンタ学派における、「解脱に至るための三つの学習段階」というものがある。
1)聴聞
2)思惟
3)瞑想

ヨーガ指導に当たる教師は、ヴェーダ聖典等から引用しながらその趣旨を繰り返し語って聞かせる。聴いた生徒は理論的に思索を深め、重要な問題に関して師と対論することによってその理解を強固なものにするという過程である。

「今日はどのような感じですか?」とまずお尋ねすることは、安全に実習を行うためでもあり、今日のこの場で、ヨーガの智慧のうちのどの部分をお話すれば助けになるのかを見極めるためでもある。

人間を層構造として考える「人間五蔵説」では、肉体は一番外側に位置しもっとも力の弱いものとして語られる。
心のなかで思う葛藤は、肉体よりも大きな力をもって肉体に間違いなく影響を与えていく。

もう過ぎ去った過去のこととして、笑って語れる昔ばなしとすることができたからここに書くけれども、当時その生徒さんが主治医にかけられていた言葉は想像するだけで痛みが伝わってくるものだった。

手術をやらなければ死んでしまう。
でも、やったとしてもどうなるかわからない(死ぬかもしれない)。
しかし、手術しないと絶対死ぬ。

と、こんなやり取りが毎回繰り広げられて、生徒さんは恐怖から決断ができない。
毎回決断ができないことが続くと、医師はもっと脅す(と、生徒さんには感じられる)。

どうしていいのかわからない、という葛藤の中にいつもあって、助けてくれるはずの医師を全く信用できない。たまりかねて、勇気をふり絞って転院を願い出ると、「どこでやっても一緒なのに、紹介状はかけない」と却下されたという。

治療という取り組みを行いながら、この堂々巡りはいったいなんだろう?
結論から言うと、私は知人医師を紹介して転院のお手伝いをした。
新しい医師とのやり取りや転院に関わる葛藤に際しても、緊張や不安を和らげられるように教室外でもお話をした。

最終的には「この病院で、この人に切ってもらえるなら」と言ってご自身で先生を探し出してきた。その後の展開は本当に素晴らしく、「この先生になら命を預けてもいい」という彼女に、新しい主治医は完璧に応えてくださった。まるで恋をしているかのように、その先生を受け容れているというそのことが、手術の予後に影響しないはずがないではないか。

この経験の中でヨーガが役に立てたのがどのような点かというと「人は、自分の人生の主人である」という考えであると思う。私たちは小さな自我などではなく、アートマンなのだから。
自分の人生の主人であることを選べば、おのずからその先の展開は違ってくる。
どう生きたいかを、あなたは自分で考えてもよい。
人の考えの下に隷属しなくてもよい。それこそが悟りだ。
そしてヨーガはあらゆる手法を使いつつ、常に隷属からの解放を目指す。

大手術を終えて戻ってきた彼女の笑顔がとても眩しく、このような経験にほんの少しでも関わることができたことを心から嬉しく思う。

きっとこのような思いをしている人が、たくさんいるのだろう。
医療という崇高な活動にも、光と闇がある。
医療現場で活動しているわけではないけれども、何らかの形で、彼女のような人とこれからも出会っていければいいと願う。

そしてこの国の医療が、ほんとうに人の心身を救ってくれるものであるように祈る。