蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№403 見つめていなければ

「『これ』の部分が限定であるかぎりは、そのアートマンアートマン自体とは異なっている。限定が滅したとき、認識主体はそれとは独立して確立している。斑の牛の所有者は牛とは独立して確立しているように。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-5


今日は少しだけ遠出をする。
感染症のためにおやすみしているクラスのおひとりに、お会いするため。

大動脈解離から生還し、今年3月に無事手術を終えられた。
初めてお会いしたときのこの方の心のなかの葛藤は、恐ろしいほどのものだったと思う。
病気のこと、ご家族のこと、主治医のこと、手術のこと、心は千々に乱れておられた。
そこで私にできることは、たとえそれが一時的なことであっても、心身をゆるめるお手伝いをすること。

ヨーガの専門家としての勉強を始めた頃、教師は自己の内面を見つめている必要があると厳しく指導され、内観研修所での集中内観を強く勧められた。
20名ほどの同期生がいたけれども、3年間の教育期間中に内観を受けたのは私だけだったように思う。

内観法とは、実業家出身で浄土真宗の僧侶だった吉本伊信先生が、浄土真宗の修養法である「身調べ」をもとに考案したもの。国際的な評価も得られており、2003年には国際内観療法学会も設立され現在に至っている。

期間などは施設運営者によってかなり異なるようだが、やることは共通している。
母、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて、

・してもらったこと

・して返したこと

・迷惑をかけたこと

の3つのテーマにそって、繰り返し思い出す。

集中内観は7泊8日。
個室を与えられ、その個室の中でさらに衝立の影に隠れるように、約半畳のちいさな空間に座り毎日6時から21時まで内観し続ける。睡眠中も内観しながら休むような気持ちで、と言われる。
洗面やトイレ、入浴以外でその部屋から出ることはない。食事も運んでもらえる。当然、スマホや書籍などの持ち込みもできない。

内観終了まで面接者の先生以外誰とも会わず、たとえ面接者とでも自らの内観の内容を語る以外のことはしない。

なぜそこまでするか?
内観していると自分の心の汚泥が次から次に噴き出してくるからである。
特に3日目がきついと言われているが、私も同意する。
激しい感情の振れにより、ずっと涙を流しながら一晩中眠ることができなかった。

自分がここに存在していることが、辛く、恥ずかしくなるのである。
皆がそうであるらしく、期間中決して人の目に触れないように、研修所のスタッフ一同は細心の注意をもってこの取り組みを支える。

内観法に関して、現在の私は当時とは違った意見を持っているが、それについて今日は触れない。
内観は研修というような生半可なものでなく、修行とも言えるもの。
その修行の最後に、8日間にわたって私の真っ黒な思いを聞き続けて下さった先生が「心の力の強さはおそろしいほどだ」と呟かれた。
決して野放しにしておいてはいけないと。

 

どんな方法でもいいから、最終的には自分の心や思考をなんとかできなければ。

冒頭にお話した生徒さんは、多くの葛藤の中で「自分がどう生きたいのか」を真剣に考えられた。転院や手術の決心など、さまざまな場面で良く語り合えたと思っている。
私が単に体操だけをお教えしていたら、入院や手術の過程を通じてのお付き合いにはならなかっただろう。

あの内観を経験していなかったら、自分は今どんな指導をしていただろうか。