蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№391 生きるための行

アートマンは変化することなく、不浄性もなく、物質的なものでもない。そしてすべての統覚機能の目撃者であるから、統覚機能の認識とは異なって、その認識は限定されたものではない。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7章の三

 


アマンダ・リプリー著「生き残る判断生き残れない行動 ~災害・テロ・事故、極限状況下で心と身体になにが起こるのか」が、ちくま文庫で復刊されていたので再読している。

様々な危機的状況の下で、生き残った方と命を落としてしまった方の違いとはいったいなんだったのか、いつも考えている。

ちなみに本書によると、軍隊経験者は生き残る率が高いそうである。

名称は違えど同様の組織にいたことがあるので、状況について考えたり知ったりしなくてもまず身体を動かすこと、そしてそれを叩き込まれたことが生存に役立つのかもしれないと考えた。本能レベルまで訓練がしみついているので、除隊後も役に立つのだろう。

訓練される側にもする側にも立ったことがあるが、脊髄反射で行動したあの日々が人生に有益な痕跡を残しているのかもしれないと思うと、泥まみれになったかいがあった気がして嬉しくなる。

極限状況下では、凍り付いたように動きを止めてしまう人がとても多いそうである。
例えば、火事の現場で全員がテーブルについたまま、逃げるように声を掛けられても動かなかったり、目の前で起きた事故をただ茫然と見ている、などということが多く確認されているという。

ストレス反応には、闘うか、逃げるか、というものがあるが、もう一つ「凍り付く」というものもある。闘いも逃げもできない状況下で、これも生存のためには重要な戦略となるはずなのだが…

ちなみに、大きな声で明確な指示を出してくれるリーダーの存在が、この凍り付いた状態を打破してくれるそうである。
あなたが援助を求める時には、例えば「そこの青い服を着た男性、そう、あなたです!こっちに来て手を貸してください!」などと明確に助けを求めねばならない。

ヨーガの体操では、動きを通じて緊張と弛緩を繰り返し生み出すことで、自分自身がみずからの緊張状態と緩んでいる状態を客観的に意識することを学んでいく。
また、動きを通じて、無意識のうちに生じている緊張を解き、自律神経の調和をもたらすことができる。こういう訓練を重ねていると、凍り付きにくくなるのではないかと思っている。

また、ヨーガ実習は衝撃からの心身の回復を早め、体験から有効な学びを得たという感覚を強めてくれる(目を開けてポーズを真似るタイプの実習では無理だと思うが)。

先日も「サバイバル呼吸」としてヨーガの行が活用されていることを紹介したが、身体に働きかけるアプローチは単に健康のためにだけ行っているわけではなく、通常の意識では想定していないような場面における生命力の活性をもたらすものと私は信じている。

「(肉体を)あんなふうにしてやろう、こんなふうに変えてやろう」という意図を持った実習を、ヨーガでは行わない。
バガヴァッド・ギーターの重要な教えのひとつは「結果の放棄」である。
結果を放棄する、ということは「どうなってもいいです」という投げやりさなのではなく、自分という限定された枠組みを超えた、より高い視点を持つ知性にこの身を預け、変化に身を委ねますということなのだと思う。

その視点の高い知性ってなんだ?と聞かれれば「アートマンであり、ブラフマンである」と答えるだろう。こういう知的な遊びは安全な時にやる。生死にかかわる踏ん張りどころでは「自分は守られているんだから!」と一瞬でも思い出せればよいし、そういう時に使える実習であってほしい。

状況を把握したと過信することで、危険にさらされることもある。
わからない状況の中で、いきもの本来の勘や肌感覚を最大限に使い、場をコントロールしたいという欲求を手放して、自らを大事にして生きて欲しい。