蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№404 そのままで

「統覚機能にのぼった一切のものは、すべての場合に、つねに私によってみられる。それゆえに、私は最高ブラフマンである。私は全知者であり、一切に遍在している。」
ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 7-1

昨日に引き続き内観の話を。
内観療法とは、母をはじめとして、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対するこれまで関わりについて「してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたこと」の3つのテーマにそって思い出すことを、数日間かけて面接者と共に行う療法である。

7泊8日の集中内観を受けて起きた行動変容は、私の場合、結果的に抑圧へと向かったように思う。いったいなぜそんなことになったのか考えても答えは出ず、ずっと心にモヤモヤしたものを感じて続けていた。

 

数年経って出会った2冊の本が、ヒントを与えてくれた。
内観療法は、親に存分に愛を注いでもらった確信がある者以外には、逆効果になることがあるという。
例えば親に暴力を受けて育った人に、親にしてもらったことを思い出させるのはとても酷な話ではないか。多くの暴力の中にあったほんのわずかな優しさを見つけ出して感謝するのは必要な行為なのだろうか?

多くの人は、自分自身に対して罪悪感を持って生きているような気がする。
指導という名で、「やっぱり自分が悪いんだ」「自分が変わらなければならないんだ」という思いを強化するようなことは決してしたくない。

親もまた、心の傷を持ちながらも必死に生きてきたのだ。その傷を抱いたまま子育てをして、子供になにかを投影してしまう。そうやって哀しい経験が連鎖していく例は、枚挙にいとまがない。

親に対する愛を感じるのは、親の許しがたい行為に対して正当な怒りを感じた後であってもいい。自分を無力な存在だと感じながら、奥深い怒りを抱いたままでは、この世界にしっかりと立っていくことが怖くてたまらないと思う。

ヨーガの目指す境地を「随所に主たれ」と表現するけれども、この世界の主たるものとなりすべてを許し受け容れる道は長く、決して容易ではないから、まず個として尊重されることを求めて欲しい。

誰もあなたを傷つけることを許されない。
今も傷付いているならば、癒される必要がある。

人の変容や癒しは、安全だと感じられた時に生じる。
頭で考え、できたような気になることはあるだろうが、それは幻に過ぎない。

本当の意味でありのまま認められ、愛され、抱きしめられる経験を私たちは持っているだろうか。
何の努力も要らない、今のそのままの自分でいいのだと思える関係性が人を癒す。
家族でなくてもいい。もちろん家族であってもいい。

「自分は変わる必要がある」とあなたに迫ってくるような学びは理性には役に立つのかもしれないが、あなたが生きることそのものにとってはどうだろうか。

誰も、何も、変える必要がない。
人はおのずからゆっくりと花開くように変わっていく。
それを促せるのはたったひとり、自分自身だけ。
このままでいいと心の底から思えたとき、人は変容への道に誘われる。
そう信じている。