蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№557 最高のおいしゃさん

鳥の見しものは見えねばただ青き海のひかりを胸に入れたり  吉川宏志

 

 

1月29日

五反田駅のカフェ。扉から入ってくる隙間風が寒い窓際の席で文章を書く。ふだん鳥取というイナカに住む私は、世界中の人たちが白バラ牛乳のようなおいしい牛乳をいつでも入手できるように誤解していた。ランチ後の紅茶を「ミルクでお願いします」と頼んだら、いわゆるあのコーヒーフレッシュなる乳とは何の縁もゆかりもない代物がついてきたではないか!これではミルクティーにならんやん、とお姉さんにツッコみそうになって大人の心で踏みとどまった。

 

「白バラ牛乳」とは大山乳業協同組合のシンボルマークである。
大山(だいせん)とは、我が家から車で30分たらずで行ける鳥取県を代表する山で、古くから山岳仏教霊場として知られている。そこに「大山放牧場」という夏なら牛がのどかに草を食んでいる広大な土地があって、観光施設「みるくの里」は県外からお客様が着たときの定番スポットである。ソフトクリームが大変美味なのであるが、いささか価格が高めである。350円もするんだよなあ、ハーゲンダッツじゃないんだからさあ。

ちなみに白バラ牛乳は県内の小中学校の給食に供されており、長女が中学生のとき1年間だけ入札制度になってしまって明治牛乳が納品されたという衝撃的大事件があった。子供たちが誰も飲まなかったため翌年から元鞘で白バラに戻ったが、あの頃の子供たちの嘆き節は今も忘れられない。「ママ、明治のおいしい牛乳は美味しくないんだよ…」生まれて初めて白バラ以外の牛乳飲んじゃったんだからしょうがないよね、これが人生ってもんだよ。
ちなみに我が家では、牛乳は白バラか島根の木次パスチャライズの二択である。草をちゃんと食べてる牛のお乳って、ほんとうに滋味である。粗雑体の素材となるものは、その食すものが何であるか(要するに牛乳なら乳牛さんのお食事内容)から考えないといけない。

 

で、ミルクティーはミルクも美味くなければならないのでニセミルクではいけない。こんな私だが紅茶にはかなりうるさい(チャイ専門家だから)。乳ですらなく、私の知るところ食品ですらないポーションミルクは即座に却下である。

JK剣士がまだ中学生だった頃佐賀県まで大会応援に行ったが、ついてきた長女が「宿の牛乳がマズすぎて哀しいので美味しい牛乳を飲ませて下さい」と泣きながら懇願してきた。佐賀まで来ておきながらわざわざAeonに行って、熊本の牛乳を飲ませたことを覚えている。事程左様に山陰の農産物の水準は高い。特にコメと牛乳はその差に愕然とさせられる。
地元に帰って哀しいのは、成城石井の豆のピクルスと、愛知県の味噌煮込みうどんと、東海地方にはあるころうどん(つゆは温かいやつ)が食べられないくらいで、他の悩みはないな。

 

 

で、なんでこんな話をしているかというと、ちゃんと訳があるのですよ!
ホンモノを肌感覚で知ってるかどうかで体験が根本から変わっちゃう、という話がしたかったのだ。前振り長すぎたね。

私がヨーガ教師としてラージャ・ヨーガをベースとするヨーガ療法の専門家であるということは、諸刃の剣である。
先日も代官山のショップで「鳥取はアシュタンガ*が盛んですよね」と言われたが、私はそもそも人がやってることに興味がない質なので、自分のニッチな業界(ヨーガのなかのヨーガ療法の認定療法士の世界)のこと以外、まったく(ここ強調)知らないのである。実に視野が狭い…。

ちなみにアシュタンガという言葉に*マークをつけてみたが、そもそもこの言葉からして容量不足気味の私の脳に巨大なはてな?マークが出現してしまう。アシュタンガっていうのはインドの学術言語であるサンスクリットで数字の8を意味する言葉である。アシュタンガ・ヨーガとは「八支則のヨーガ」即ちラージャ・ヨーガのこと。私にとってはね。

 

ところがどっこい、インド人がアメリカ人相手にすんごいポーズをキメるタイプのヨガに「アシュタンガ」って名前を付けて流行ってしまったらしい(と聞いている)。しかしその「アシュタンガ」を始めた人のことを、インドでヨーガの本流にいる人=行者さんは誰も知らないんだって。

 

そこでもう話が通じなくなる。だから私は世の中の人がそもそもどんなヨガをやってるのか知らない。そこで仕事をするとき(人にお教えするときに)、都会の人であればあるほど(ヨーガに関するものを目にする機会が多いから)その人の頭のなかのヨガのイメージをぶっ壊す破壊行為から始めなくてはならない。これが結構難儀なのである。

 

”なんでヨーガで自分の内側以外のものを見るの?!”
という衝撃的な驚きに直面せねばならないことが度々ある。それでこの「自分の内的感覚に対する視力を育てる」という基本的な入り口を構築するために、まずは手を変え品を変え、単純に待ったり、ただ話だけ(ダルシャナ)してみたり、たまには叱ってみたり(わざとですよ?)色んなことをしている。

 

昨日のブログでは、よくわからない、でも心配な慢性症状を「病気」と断定してしまうことの危険性について書いたつもりなのだが、自分には世界一の主治医をつけたいですよね?誰でもそう思っていると思う。世界一の名医は白い巨塔(古い…)にはいないのです。あなたが自分の主治医になる!!と決めなければそういう存在は世界に出現しないことになる。

 

自分が主治医だと、なにより自分のことを一番に大事に思ってくれる。そして自分のことを誰よりもよくわかってくれる。ここまでに数年かかるかもしれないし、この状態に至るまでには人(専門家)の手を借りて一歩一歩諦めずに歩まないといけないのだが、あなたが想像しているよりももっと早くこの主治医は育てることができる。卒業まで6年とかかからないと思う。ただ自分がだんだん欲張りになって、だんだん深い領域まで触ることができるようになるので、その意味ではこの主治医は常に発展途上の研修医である。それでも、あなたや私にとって世界一の名医であることは間違いがない。

 

伝統的ヨーガとは、この内的な名医を育てる道だと言っていいと、私は考えている。