蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№392 嫌だ!と思う能力

「虚空が一切のもののなかにあるように、私は、実に、その虚空の中にすら存在している。私は不変であり、不動であり、清浄である。不老であり、解脱しており、つねに不二である。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 13章19

 

 

昨晩、理学療法士O先生との打ち合わせの際に、私たちが与えられる影響力は2割ぐらいに過ぎないんじゃないかなという話になった。今朝改めて考えると、もっと少ないような気もする。

「痛みを取り去りたい」「症状を癒したい」と思えることが大事である。
多くの人は「痛い」と言いながら諦めているからだ。

まあこんなもんだとか、一生痛みと付き合って暮らしていくしかないよねと言いながら、「この痛みはなくならない」と決めているので、もしかしたら大いに改善させることができるかもしれない何かにばったり出会うことがないのである。
とても残念なことだ。

先日、ワークショップの講師に招かれた際、「どこかが痛い方はおられますか?」とお尋ねすると、ある男性が手を挙げられて、腰が痛い、そして「もう一生痛いままだと思っています」と仰る。
「それでいいんですか?」と返すと、「いやー、でも治らないし」と諦めモードなのがわかった。

きっとここに至るまでに、様々な方法で痛みを無くすためにご努力されてきたにもかかわらず改善しなかったので、裏切られたようなお気持ちなのだろうと思う。
そして期待することをやめてしまったのに違いない。

なんとかしたい、と思うことが治癒の第一歩であると思う。
そして「なんとかなるんだ、大丈夫なんだ」と信じる練習から始める。
その時に重要なのは、脱力とリラックスの技術だと考えている。まずそこから。

ヨーガでは「今のこの状態が嫌だ」と感じていることこそが病気だと教えている。
実際の状態には実に多様なバージョンがあるが、「自分が嫌だと思っていること」が取り組む対象になる。

でも、「よし!痛い(嫌な)ままの人生をしっかり歩んでいくぞ!」などという決意をなさった訳ではないはずなので、「なんで痛いんだよう!」という思いをもう一度取り戻して、「痛い(嫌だ)」という事実をドン!と目の前に持ってきてほしい。

「治りませんね」とか「痛いはずないですけど」、「検査では異常ありませんけど」という言葉に抵抗しよう。
あなたがつらいと思ったら、つらいのだから。

つらいと思っていることを本気でなんとかしたいと思って、何かに取り組んでみることが、成長というものなんじゃないだろうか。
成長のためにどこかに行ったり、何かしたりするよりも、自分というものに向き合ってみたらどうだろうか。きっとびっくりするほど色んなことに気付けると思う。

「痛い・つらい」ことを自分以外の人にも発信することも大事である。
黙って悩んでいたら、ますます落ち込んでしまう。

「痛いんだよね、困ってるんだよね、何とかしたいんだよね」ということを信頼できる人に話す。
そして時間を置いて待っていると、何かが向こうからやって来ることがある。
ちなみに私の人生で大事なものは、誰かがつないでくれたり、目の前に現れた情報に素直に飛び込んだものばかりだ。

探しに出ないこと、ハラで感じたものを信頼すること。
もし既に傷付いているなら、まずその思いを癒やすこと。