蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№389 目に見えない部分

「万処にある風(वायु  Vāyu)が空間(आकाश Ākāśa)に永遠にあり続けるように、万物もまた我の内にあると知れ。」バガヴァッド・ギーターⅨ-6

 

 

先日、アメリカでレイキ・マスターの資格を取得したMさんと一緒にワークショップを開催した。参加者の皆さんには“目に見えない気”を感じて欲しかったのだが、なかなか難しかったようだ。

Mさんはレイキの勉強のために一時的に海外に行ったのではなく、そもそもあちらでビジネスをしている方なのだが、感染症の件で思わぬ長期滞在になった。
生きる上でぶつかった苦しさのためにレイキや瞑想に出会いその実践を重ねているということが、私自身の経歴にも似ていて親近感を覚える。

10年前に初めてお会いしたときには、こんなことを一緒にやる日が来るとは思っても見なかった。人生とは実に不思議で楽しい。


さて10年ほど前、私も師に勧められて東京でエネルギーワークを体験したことがある。
その頃はハッキリ言ってよくわからなかったし、施術して下さる方によってはほとんど感じられなかった。

なので「わたしにはわからないんだな」と思って生きてきたのだが、なんとまあ、今は明確に感じられるようになっているではないか。当時お世話になった方に申し訳ない気持ちでいっぱいである。

きっかけは、3月にMさんがレイキ体験をさせて下さったことで、自分の掌から熱感のある“なにか”が出ていることをリアルに感じた。
とても面白いので、生徒さんのお許しを頂いて触れさせて頂くと「熱い!」と言われたりして、私ひとりの気のせいでもないことが確信できた。

同時に、この10年をかけてヨーガの実践を積んできたことと、氣を感じられるようになったことは無関係ではないことも理解した。
そんなことは当然かと思われるかもしれないが、ヨーガ療法を専門としてきた私にとってクリニック等で語れないこと(チャクラとかブラフマンとか)に対するハ―ドルは高く、意識は低かったのだ。


この変化をもたらしたもののなかで最も役に立ったのは呼吸の訓練(調気法)だと考えている。

何年もの間、複数の調気法とクンバカ(止息)、そしてバンダを組み合わせて行ってきた甲斐があった。

昨年末にリチャード・バートレットによる「マトリックス・エナジェティクス ― 量子論的手法による変容のテクニック」を読んで感動し、人の存在そのものにアプローチする手法に興味を覚えていたところだったので、Mさんには大いに感謝している。

ヨーガでは人間五蔵説という概念を用いて人を理解するが、肉体はもっとも薄い皮のような物であると考えている。玉ねぎで例えると、一番外側の茶色くて薄い皮。

ワークショップを行った際にもつくづく感じたが、ヨーガを肉体という側面だけで考えている人が多過ぎて実にもったいない。
いったい私とはなんなのか、その点から理解を深めていって欲しいし、そのためにヨーガが用いられて欲しい。