蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

388 観る者でいるために

「すべてのものに対し自己中心の愛着がなく、種々の善悪に出合うとも喜びも憎しみもない者、その人物の智慧は不動のものとなっているのだ。」バガヴァッド・ギーターⅡ-57


数日更新をサボっていた。
理由は、今読んでいる本の内容を咀嚼するのにエネルギーを要していることと、娘の悩みに寄り添っていたからである。

高校生の娘が、学校に行くのが辛いと訴えてきたのは6月のことだった。
つらい時は緊急避難が大事である。
心理的な安全を確保してよく話を聴いてみると、様々な思いがちゃんぽんのように具沢山になっておりいったい何が本当につらいのか本人もよくわかっていないのだったが、これは高校生だからというわけではなく悩む人はみなそうであると思う。

思春期のホルモンの影響(右上象限:肉体)も当然受けているだろうし、進路や将来に対する不安(左上象限:自分の内面)もある。
問題は人間関係(左下象限)として生じた。

が、私が思うに、学校サイドは左下(環境、社会)の影響をあまり考慮していないと感じる。
もちろん信頼できる先生方は、そのことをきちんと考えておられる。

例年であればこの時期、既に上位大会への出場を得て燃えているか、秋の新人戦に向け気持ちを切り替えているか、とにかく余計なことを考える暇がないくらい稽古や遠征で疲労困憊、前しか見えないなかでじりじりと進んでいく匍匐前進のような状態なのである。

ところが、あれもこれもなくなってしまったがために怖いくらいヒマで、やたら周囲のことも目に付く。一所懸命やってきた者ほど無意識下ではムシャクシャしているのだろう。
同時に、こんな時でもそれなりに平常心で生きていられる人も当然いて、そういう子が割を食っているように見える(あくまでも私の主観)。

 

この状況で私は二つのことを考えた。

1.つらい時に助けを求める、もしくはつらい状況にあることを周囲にアピールできるのは大変重要なことである。
2.ナチスドイツ時代に代表されるような異様な空気の中で、正気を保っていた人の生きにくさと、実際その状況をどう生き抜いたかは学んでおくべきである。

 

さて、ここ数日我が子は学校に行っている。
担任の先生(国語)に「俳句でも歌でも詩でもいいから作って、僕に見せてよ」と言われたその翌日、近くの山の神社に詣で、川で遊んで、三つの作品を作った。
その時自分の読んだ歌に癒されたらしい。

ここに書き写すことは控えるが、「自然に触れ、自分の悩みの小ささに気付かされ、それを笑うことができた」というような意の歌であった。
この先生は、最終的に実に素晴らしい解決策を提示して下さったと思う。

苦しみを克服するには、自分が観察者であることを思い出さねばならない。
目の前の状況を苦か楽かの二極で分類していては、いつまでも苦しいばかりである。
人間はほんらい別々にわかれて生きている存在ではないのだから「魚、水を知らず。鳥、空を知らず。」という状況から目を覚ますことが必要だ。

そこを目指さないままに、体操や呼吸法だけ教えることはしたくない。
一者でありながらも、個である夢を見ていることのエッセンスを安心して表現できるための道具として、yogaを使っていきたい。