蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№381 からだを虐めない

「汝が自分中心の執着から生ずる迷妄を克服した時、汝はこれまで聞いたことと、これから聞くであろうこととを区別しない無執着の境地に達するのだ。」 
 バガヴァッド・ギーターⅡ-52


昨晩、子供の出稽古の付き添いをした。
稽古の前に1時間かけて「体幹レーニング」を行う。
その道場で特徴的なのは、送迎のお母様方も一緒にそのトレーニングを行っているということだった。

当然私にも「どうぞご一緒に」とお声がかかったので、下半身を鍛えるスクワット系の動きと、バランスを保つ動き、そしてプランクをお付き合いし、腕立て伏せやジャンプ系の動きはパス。
約1時間かけて運転して帰る必要があるから消耗する動きはやらない、という言い訳以外にも色々と思うことがあったので、ここで考察してみたい。

一言でいうと、これではからだが壊れる、ということ。

事実、指導者の先生は腰痛持ちとのことで、骨盤周辺の動きが悪いのが見て取れる。
とてもショックだったので、共同で指導を行わせて頂いている静岡在住のよっちゃん先生(理学療法士さん)に思わずメッセージをしてしまった。

体幹レーニングと言いつつ、アウターの筋肉ばかり使って、インナーの筋肉は全然使ってないよ!」

これを読まれる方の中にも、「体幹を鍛える」ということにご興味がおありだったり、実際にジムに通っておられる方もおられると思う。
肉体を鍛えることはとてもいいことだけれど、からだをモノのように扱って、そこに意識が伴っていない活動をしておいでの方が多いように見受けられる。
そして呼吸もまた、疎かにされている。

数日前から「投影された宇宙」を読んでいるところなのだが、私たちの肉体も豊かな全体の一部なのであって、自分の小指の先にまで意識を払ってみたら、それこそ大いなる学びがあるだろう。

昨日体験して頂いたトレーニングも、エクササイズ・タイマーを用いてある一定の時間を「限界まで耐える」のだが、まるで肉体は痛めつけないということを聞いてくれない別の生きもののようだ。
よく話し合いをして、意思の疎通を図ることからはじめて欲しいのだが…


さて、トレーニングはあなたの日常生活をどのように変容させてくれるのだろうか?
ここでしかできないことを時々やるのではなく、日常動作が変わる気付きをこそ求めて欲しい

昨日の出稽古は剣道だったので、それを題材に少し実験をしてみよう。
竹刀を持つつもりで、手近にあるペンかなにかをお持ちになって欲しい。
どんな風に掴んだだろうか?

既にご存知の方もおいでと思うが、竹刀は薬指と小指で握るもの。
これができると、二の腕から胴体にかけての筋肉が上手に使えるようになる。
(そういえば、三味線の撥も同じように握る。)
胸が開かれ、骨盤はやや前傾しながら立つことになるだろう。
その時、十分に深い呼吸が行え、心は静かに澄みわたるはず。

また、剣道はすり足という歩行を行う。
これは茶道の足捌きと同じなのだが、「歩き方で歴がわかる」と言われるほどこのすり足は難しい。

ドタバタと足を上下させずに、床面と親和するように歩く。
私が歩いているのか、床が私を運んでくれるのか。
すり足を行うとき、からだは自然にまっすぐになる。ここでもやはり、呼吸は落ち着いていくだろう(息を止めていなかったら)。

もしわたしがスクワットを指導するならば、「床に落ちた、小さな、大事なものを拾うつもりでそっと腰を落としてごらんなさい」と申し上げるだろう。
そしてその時、太ももを痛めつけないように腰を落としてみて、という。
そのためには、架空のしっぽを天に向けて上げながら、お尻の筋肉に働いてもらうといいですよ、と。

太ももに頼らず、内側の筋肉に働いてもらって、からだは骨で支えてもらう。
この感覚がつかめると、日常動作がとても楽になる。


内側の筋肉は呼吸と深く連動している。
からだの深層の、自分では決して触れないところを呼吸が優しく触れてくれる。
内臓までマッサージしてくれるかのように。

呼吸が変われば日常生活は一変するだろう。
これが本当の「体幹」を鍛える動きだと、私は考えている。

だから、呼吸と意識化の練習から始めるのが良い。
そして、自分の呼吸のリズムと調和しながらゆっくり動く(タイマーなどに支配させない)。
反復してもその都度感覚は違うので、反復を目的とせず、感覚の違いを感じ取ることを重視する。

呼吸と意識を考慮しない動きは、この世にたくさんの怪我人を生み出すように思う。
肉体を通じて自分を愛おしむという活動をこそ、トレーニングといってくれるようになればいいのに。
からだを鍛えることでどこかを壊してしまう人を、無くすことができればいいのに。